企業不祥事が発覚すると、記者会見で社長以下の役員が並んで頭を下げる。
もう、見慣れてしまった光景です。
そして、その謝罪会見で言われる言葉もパターンが決まってきました。
「今後は、コンプライアンスの一層の徹底に努め、二度とこのようなことがないように・・・・・・」
コンプライアンスという言葉、いつの間にかビジネス用語として当たり前に使われるようになりました。
いまや、多くの企業がコンプライアンスに敏感になっています。
特に上場企業は、情報開示で積極的に自社のコンプライアンス体制をアピールしています。
また、非上場でも、最終消費者に自社商品を届けている企業は、HPで、コンプライアンスの徹底を表明しているところもあります。
企業の信頼を維持するのに、このコンプライアンスは重要だということが認識されてきたということでしょう。
ところが、言葉ばかりが流行りだすことの弊害があります。
表面だけを取り繕うような風潮があるからです。
「とにかく、コンプライアンスを入れておけばいい」ぐらいに考え、言葉だけが上滑りしているように見えるケースもあります。
言葉だけが上滑りしだすと、本来の目的が分からなくなり、単なる手段が目的にすり替わったりします。
このような背景からか、「コンプライアンス」は、いまや特に誤解の大きいビジネス用語になってしまいました。
なによりも誤解の元凶は「法令順守」と訳したことでしょう。
それで、一般に「コンプライアンスとは法律を守ること」と認識されるようになってしまったのです。
法律にさえ抵触しなければ、何をやってもOK、というような風潮にもつながりかねない事態です。
もともと、「コンプライアンス」という言葉に「法律を守る」という意味はありません。
「従順に従う」というのが本来の意味です。
では、ここでは何に従うのでしょうか。
法律に従う?
それも1つですが、それだけではありません。
かっこいい言葉で言うと「社会規範に従う」ことです。
日本人に最もしっくりくる表現で言うと、「ヒトサマに後ろ指をさされないように」ということになります。
では、「社会規範」とは何でしょうか。
3つあります。
1.法令
2.道徳
3.慣習
法令も、ちゃんと入っています。
でも、社会規範の一部に過ぎないことがお分かりでしょう。
ここで言う法令は、国の定めた法律や命令だけではなく、条例や規則、更には業界規定や社内規定など明文化されたルール全般を言います。
法令は、企業が最低限守らなければいけない枠組みです。
どんなに特別に事情があったとしても、法律に違反する行為は許されません。
知らなかった、気づかなかった、という言い訳も通用しません。
悪意がなくても、思わぬところで違反してしまう恐れがある場合は、法務リスクとしてきっちり対処しなければなりません。
法令順守は、ちょっとしたミスも許されないという意味で、最も神経質になるところです。
道徳は、社会通念上、やってはいけないこと、やならなくてはいけないことです。
人に道徳が求められるのと同じように、企業にも道徳が要求されます。
企業倫理という言葉で表現されることが多くなりました。
明文化されていないので、道徳に反するかどうかの基準は曖昧になりがちで、時代とともに変化します。
現在の多くの人に受け入れられるかどうか、というところに判断基準があります。
慣習は、社会でずっと行なわれてきて、多くの人に承認されてきた行動様式です。
行動の良し悪しの判断はありません。
ただ、以前からみんなそうしてきたし、これからもみんなそうするだろうと考える行動です。
どうしてそんなことをしなければいけないんだ、と理屈をこねても仕方がありません。
なにも特別にことわらなくても、当然そうするだろうと認識されているので、世の中がスムーズにまわっていくのです。
ライブドア社は、かつて大量な株式分割を繰り返し、株価高騰したところで、自社株を売り抜けたり、株式交換で企業買収したりしました。
その異常な株式分割が非難されました。
また、ニッポン放送株の買収騒動では、市場内の時間外取引で大量の株を取得し、一気に大株主として躍り出ました。
その不公正さが非難されました。
ところが、株式分割や時間外取引は法律違反ではない、ということで許されてしまったのです。
ライブドア社も「違法ではないでしょ」ということを論拠に批判をはねつけていました。
そして、驚くべきことに、監督する金融庁までもが、「違法性は認められない」とお墨付きを与えてしまう格好になりました。
当時の社長が強烈なキャラクターでマスコミに登場し、まるで時代の寵児であるかのような扱いでした。
彼の型破りな行動を、旧弊を打破する変革者として応援する評論家が現れたぐらいです。
もちろん、当時から批判の声を上げる人も多くいました。
しかし、その声はなぜか大きく広がることがありませんでした。
そして、社長みずからが、自民党の応援を受けて衆院選に立候補したり、経団連に入会を許されたりと、社会的に受け入れられていったのです。
このときの判断基準は法律に違反しているかどうかだけだったようです。
異常な株式分割で株価操作を狙った行為は、一般投資家の利益を無視したものでした。
時間外取引は、従来の企業同士の持ち合い解消をスムーズに進めるための制度で、株式大量取得が目的の場合は、TOBをかけるというのが慣例でした。
これらが、法律違反ではない、という一点で、踏みにじられていったといってもいいでしょう。
この騒動がおきた2005年は、日本におけるコンプライアンスの危機でした。
また、村上ファンドのケース。
村上氏は、「プロ中のプロ」を自任し、「私は決して法律は犯さない。コンプライアンスは大原則だ」と豪語していました。
彼も、「コンプライアンス」を「法律を守ること」という解釈でしか理解していなかったようです。
インサイダー取引疑惑で逮捕直前の記者会見では、法律にだけは抵触しないように細心の注意を払っていたつもりが、うっかりミスしてしまったという悔しさがにじみ出ていました。
彼にとって、コンプライアンスは、法律を守るというより、法律に触れないようにする、ということだったようです。
もっといえば、お縄にならないようにするにはどうしたらいいか、というのが行動基準だったようにも見えます。
企業活動において、法律を守るなど当たり前です。
法律を守ったからといっても、最低限の基準をクリアしただけで、威張れたものではありません。
企業も社会の一員であり、社会的責任を自覚し、ヒトサマから後ろ指を刺されない行動が求められるようになってきたわけです。 |