源頼実

ホーム 上へ 故侍中左金吾家集

事跡:
 長和4(1015)年、出生
 長元8(
1035)年春、蔵人所雑色補任
 長暦2(1038)年9月13日夜、 『権大納言源師房家歌合』出詠
 長久2(1041)年4月7日、『権大納言源師房家歌合』出詠
 長久3(1042)年、このころ『橘義清歌合』に参加
 長久3(1042)年閏9月晦日、高陽院で開催された歌合に参加
                   このころ『橘義清歌合』に参加
 長久4(1043)年1月9日、五位蔵人任官。従五位下左衛門尉。
 寛徳元(1044)年6月7日、没
 
 
 左馬頭頼国男。母は信理女。相模の甥。和歌六人党の一人。叔父頼家、弟頼綱も勅撰集歌人。師房の土御門邸に頻繁に出入りし、我が身を秀歌に替える事を祈って夭折した話など、歌道執心を伝える逸話が残る。(『袋草紙』・『今鏡』)。田園・山村に題材を求めた叙景歌に優れたものがあり、表現に新鮮さが見られる。家集に『頼実集』。後拾遺集初出。

家集:
『頼実集』
 『頼実集』は伝本の多くが『頼実集』と外題して、内題を故侍中左金吾家集』としており、流布本系と異本系とに大別される。
流布本系:@群書類従本系(島原松平文庫本・穂久邇文庫本・
        ノートルダム清心女子大蔵黒川家旧蔵甲本など)103首
       A今井似閑本系(三手文庫本・山口県立図書館本)102首
       B古歌集本系(書陵部御所本(501・448)・
        ノートルダム清心女子大蔵黒川家旧蔵乙本)100首
異本系:東洋文庫本 102首

 前者は歌数103首、群書類従253・私家集大成2に所収。私家集大成の底本である島原松平文庫本は、群書類従にはない勘物を持つ。後者は歌のみの略本で、東洋文庫本が唯一の伝本。流布本の91番歌を欠くだけで、歌序には相違がない。流布本系・異本系ともに同一祖本から派生したものと考えられている。
 内容は流布本によれば、春(8首)・夏(23首)・秋(53首)・冬(10首)・恋(9首)と整然と部類され、大部分が題詠歌である。作歌はほとんどが長暦・長久年間のものと思われる。

逸話:『袋草紙』
「江記に云はく、「往年六人党あり。範永・棟仲・頼実・兼長・経衡・頼家等なり。頼家に至りては、かの党頗るこれを思ひ低(かたぶ)く。範永曰はく、「兼長は常に佳境に入るの疑ひ有り」。これ経衡の怒る所なり」。また云はく、「俊兼の曰はく、「頼家またこの由を称す。為仲、後年奥州より歌を頼家の許に送る。『歌の心を遺す人は君と我なり』と云々。頼家怒りて曰はく、『為仲は当初(そのかみ)その六人に入らず。君と我と生き遺るの由を称せしむるは、安からざる事なり』」」と云々。」
逸話:『袋草紙』

「源頼実は術なくこの道を執して、住吉に参詣して秀歌一首詠ましめて命を召すべきの由祈請すと云々。その後西宮において、
木の葉散る 宿は聞きわく 方ぞなき しぐれする夜も しぐれせぬ夜も
と云ふ歌は詠むなり。当座はこれを驚かず。その後また住吉に参詣して、同じく祈請す。夢に示して云はく、「秀歌は詠み了んぬ、かの落葉の歌に非ずや」と云々。その後秀逸の由謳歌せり。また其の身六位なる時夭亡すと云々」
逸話:『今鏡』
「左衛門尉頼実といふ蔵人、歌の道すぐれても、又好みにも好みけるに、七条なる所にて人々夕べにほととぎすを聞くといふ題を詠み侍りけるに、酔ひてその家の車宿りに立てたる車に歌案ぜんとて寝過ぐしけるを求めけれど、思ひもよらですでに昂然として人みな書きたる後にて、このわたりは稲荷の明神こそとて念じければ、きと覚えけるを書きて侍りける。
稲荷山 越えてや来つる ほととぎす 木綿かけてしも 声のきこゆる
同じ人の、人に知らるばかりの歌詠ませさせ給え。五年が命に代えんと住吉に申したりければ、落葉雨の如しといふ題に、
木の葉散る 宿は聞きわく ことぞなき 時雨する夜も 時雨せぬ夜も
と詠みて侍りけるを、必ずこれとも思ひよらざりけるにや、病つきていかんと祈りなどしければ、家に侍りける女に住吉のつき給ひて、さる歌詠ませしは、さればえいくまじとのたまひけるにぞ。ひとへに後の世の祈りになりにけるとなん。」

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