事跡:
長元元(1028)年、 出生
長久3(1042)年ごろ、尾張守補任か
永承5(1050)年11月、『修理大夫俊綱歌合』を自邸で開催
天喜4(1056)年4月30日、『皇后宮寛子春秋歌合』参加
天喜5(1057)年ごろ、丹波守
康平元(1058)年以前、法成寺宝蔵本の『新撰万葉集』を書写する
治暦3(1067)年ごろ、播磨守
延久3(1071)年ごろ、讃岐守
承暦元(1077)年、近江守
承暦2(1078)年4月28日、『内裏歌合』で右方の頭(方人の長)・読師を勤める
承暦3(1079)年5月18日、藤原賢子出産の里邸を提供(西洞院邸)
永保元(1081)年、但馬守
寛治7(1093)年10月18日、近江守
嘉保元(1094)年7月14日、没
実父は関白藤原頼通だが、播磨守橘俊遠の養子となり橘姓を名乗る。 のち藤原氏に復姓したとも伝えられる。母は従二位源祇子。丹波、播磨ほか諸国を歴任し、修理大夫に至る。正四位上。
和歌のみならず、笙・笛・琵琶などにも優れ、水石幽奇の邸を伏見に営み、歌合・歌会を催すなど、風雅風流に執した。能因・源経信・藤原通俊などとの交流で知られ、和歌六人党とその周辺の人々に対してはパトロン的存在となり、当時の歌壇に隠然たる勢力を持っていた。
著書に『作庭記』がある。後拾遺集以下に10首入集。
橘俊綱の和歌
『袋草紙』
新撰万葉集は延喜の御時これを抄出すと云々。五巻なり。万葉集、昔は在る所希なりと云々。而して俊綱朝臣、法成寺宝蔵の本を申し出でてこれを書写す。
『袋草紙』
先達も誤る事あり。良暹は「郭公ながなく」と云ふ事を「長鳴く」といふ心と存じたるなり。俊綱朝臣の許において五月五日に「郭公を詠める」歌に云はく、
やどちかくしばし汝が鳴け時鳥けふのあやめのねにもたぐへん
懐円嘲哢して云はく、「「ほと」と鳴きはじめて、「ぎす」とながむるにや」と云々。
『袋草紙』
木幡山すそのの嵐さむければ伏見のさともえこそねられね
これは、俊綱朝臣の伏見に侍りけるに、夜たたずみありきけるに、あやしの宿直童の土にふせりてながめける歌なり。これを聞きて小袖をぬぎて給ひけりとぞ。下揩フ着るつづりと云ふ物をばこはたといふと云々。
『袋草紙』
兼日、和歌の題ならびに左右の頭、念人等を定む。天徳の時、更衣藤原脩子同じく有序等をもって、左右頭となす。承暦の時、蔵人頭実政左の頭となり、右方は蔵人頭なきにより、位階の上揩スるをもって俊綱を用う。
『十訓抄』第三、4 ( 『古今著聞集』185番)
田舎上りの兵士の水上月の秀歌と大宮先生義定が尾上松の秀歌の事
伏見の修理の大夫俊綱の家にて、人々「水上の月」といふ事をよみけるに、田舎よりのぼりたる兵士、中門の辺にてこれを聞きて、青侍を呼びて、「今夜の題をこそつかうまつりて候へ」とて、
水や空 そらや水とも 見えわかず かよひてすめる 秋の夜の月
侍、このよしを披露しければ、大きに感じあへり。その夜、これほどの歌なかりけり。
同じ人播磨の国へくだりけるに、高砂にておのおの歌よみけるに、大宮の先生義定といふものが歌に、
我のみと 思ひこしかど 高砂の 尾上の松も またたてりけり
人々感じあへり。良暹その所にありけるが、「女牛に腹つかれぬるかな」といひけり。
『十訓抄』第十、47
良暹、大原より伏見修理大夫のもとへ、物こひにやるとて読める歌、
おはら山 まだすみがまも ならはねば 我宿のみぞ 煙たえたる
『十訓抄』第七、25
成方と云笛ふき有けり。御堂入道殿より、大丸と云笛を給て吹けり。目出き物なれば、伏見修理大夫俊綱朝臣ほしがりて、千石にかはむと有けるを、売らざりければ、たばかりて使をやりて、うるべきのよし云けり。空言を云付て、成方を召て、「笛得させんと云ける、本意也。」と悦て、「あたひはこふによるべし。」とて、たがひにかわんと云ければ、成方色を失て、「去事申さず。」と云。此のつかひを召迎て、尋らるるに、「正しく申候。」と云ほどに、俊綱大に怒りて、「人を欺きすかすは、其咎軽からぬ事なり。」とて、雑色所へ下て、木馬にのせんとする間、成方曰、「身の暇を給て、此の笛を持て参べし。」といひければ、人を付て遣す。帰り来て、腰より笛を抜出て云やう、「此のゆへにこそかかる目は見れ。情なき笛也。」とて、軒のもとにおりて、石を取て、灰の如くに打摧つ。大夫、笛を取と思心の深さにこそ、様々構けれ。今は云かいなければ、戒しむるに不及して、追放にけり。後に聞ば、あらぬ笛を大丸とて打摧きて、本の大丸はささひなく吹行ければ、大夫のおこにてやみにけり。始は、ゆゆ敷はやりごちたりけれど、終に出しぬかれにけり。
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