おふさかの

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『後拾遺和歌集』第一、春上

    
立春日よみ侍りける

4  
逢坂の 関をや春も こえつらん 音羽の山の 今日はかすめる 
 
『後拾遺和歌集』第三、夏

    
宮内卿経長が桂の山荘にて、五月雨をよめる

208
つれづれと おとたえせぬは 五月雨の 軒の菖蒲の しづくなりけり
 
『後拾遺和歌集』第六、冬

    
山里のあられをよめる

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とふ人の なきあしぶきの わがやどは ふるあられさへ 音せざりけり

『後拾遺和歌集』第十九、雑五

    
伏見といふところに四条の宮の女房あまたあそびて、
    日くれぬ先にかへらむとしければ

1146
都人 くるればかへる 今よりは 伏見のさとの 名をもたのまじ 

『千載和歌集』第十八、雑歌下

    照射(ともし)をよめる

1183 ともしして 箱根の山に 明けにけり ふたよりみより 逢ふとせしまに 
 

【通釈】

    立春の日、詠んだ歌

   春はまあ、もう逢坂の関を越えてしまったのだろうか、
  音羽山が今日は霞んでいるのを見ると。 

    宮内卿経長の、桂にある山荘で、五月雨を詠んだ歌

  しんみりと寂しい音が絶えないのは、五月雨が軒の菖蒲を伝わって、
  落ちる雫だったのだなあ。 

    山里のあられを詠んだ歌

  訪れる人とてなく、したがって足音もない蘆葺の我が家は、
  屋根に降る霰でさえ、音のしなかったことであるよ。 

    伏見というところへ、四条宮の女房がおおぜい遊びにきていたのが、
    日が暮れないうちに宮へ帰ろうとしたので、

  都の人も、日が暮れると臥してくれる(泊まる)こともなく帰ってしまう。
  これからは、「伏見」の里の名もあてにはすまい。  
    
    照射をよめる
  
  照射をしていて、箱根の山で夜を明かしてしまったよ。
  二度、三度と鹿に出逢おうとしている間に。

【語釈】
●逢坂の関……近江国と山城国の国境にある逢坂山に設けられた関所(現在の滋賀県大津市)。大化2(646)年設置されたが、延暦14(795)年平安遷都ごろに一時廃止され、その後天安元(857)年再び設置。和歌においては都との別離の感懐を詠み込むことが多いが、百人一首で名高い「これやこの行くも帰るもわかれては知るもしらぬも逢坂の関」では、人生での出会いと別れを象徴する情景とされる。恋の歌では男女が障害を越え、また一線を越えるという意味で使われる。
●音羽の山……京都市山科区にある山。東国へ向かう場合はこの山を越えて逢坂山へ出た。和歌では逢坂山と対比させたり、ほととぎすの鳴く山として詠まれたりした。
●宮内卿……八省の一つ、宮内省(宮中の調度・御料・調貢・その他宮中関連の事務を司った)の長官。
●経長……源経長。権大納言・皇太后宮大夫。寛弘2(1005)〜延久3(1071)年6月6日。権中納言源道方の子。『経信集』の歌人、経信の兄。郢曲や篳篥の上手としても知られた。
●桂の山荘……経長は桂に山荘を所有し、歌人たちの集う場として提供していたらしい。
●つれづれと……しんみりとして寂しいこと。
●あしぶき……葦葺き。葦(水辺に自生する多年草。笹に似て葉が長く、秋に花を咲かせる)を乾燥させて葺いた屋根。
●伏見……大和国の伏見(現在の奈良市菅原)と、山城国の伏見(現在の京都市伏見区伏見)があるが、ここは後者。荒涼とした風景を詠み込んだものや、朝夕の寂しい風景、また「臥し身」と掛けて用いられた。
●四条の宮……藤原寛子。長元9(1036)〜大治2(1127)年8月14日。藤原頼通女。母は因幡守種成女祗子。永承5(1050)年に後冷泉天皇に入内し、翌年皇后となる。治暦4(1068)年出家。天喜4(1056)年4月、『皇后宮春秋歌合』、寛治3(1089)年8月、『四条宮扇歌合』などを主催。
●四条の宮の女房あまたあそびて……寛治8(1094)年、俊綱は四条宮の宮の女房たちを伏見の山荘に招いた。
●照射……ともし。夏山の狩りで、夜、火串(ほぐし・松明を挟んでおく木。枝付きのヒバなどを地面に刺しておく)を立てて、それに近寄る鹿を射たもの。
●箱根の山……相模国の歌枕。「箱」の縁語として、「二(蓋)」「三(身)」「開く・明く」などの掛詞に用いられた。
●ふたよりみより……二度三度。「より」は度数を表す。