事跡:
寛弘5(1008)年、出生。幼名万寿宮。本名資定王。
寛仁4(1020)年1月5日、従四位下
12月26日、賜姓源氏。元服し師房と改名
閏12月23日、任侍従
治安元(1021)年10月8日、禁色を聴さる
治安3(1023)年12月15日、右権少将
万寿元(1024)年1月26日、兼近江介
3月27日、道長家司、大弐惟憲邸において道長女尊子と結婚
9月19日、正四位下(行幸高陽院之次。越階所叙也)
9月21日、従三位・非参議(太皇太后宮自関白頼通家入内本宮賞)
万寿2(1025)年1月、長子通房誕生
万寿3(1026)年10月6日、権中納言
11月26日、春宮権大夫
長元2(1029)年1月24日、正三位
12月20日、従二位(八幡賀茂行幸行事賞)
長元3(1030)年2月23日、左衛門督
長元4(1031)年9月、彰子住吉御幸
10月2日、御幸帰途、摂津天の河において「住吉の道に述懐」
和歌披講。師房、真名序を草す。
長元5(1032)年12月19日、正二位(上東門院日来移御賀陽院亭而遷御日賞)
長元8(1035)年10月14日、左衛門督を辞す・権大納言
長暦2(1038)年9月13日夜、 『権大納言源師房家歌合』主催
長久2(1041)年4月7日、『権大納言源師房家歌合』主催
長久4(1043)年1月24日、按察使
寛徳2(1045)年1月16日、春宮権大夫を辞す
永承3(1048)年、按察使を辞す
永承5(1050)年、
天喜2(1054)年9月9日、服解。
9月23日、復任
康平7(1064)年12月26日、右大将
治暦元(1065)年6月3日、 内大臣
延久元(1069)年8月22日、右大臣
延久元(1072)年6月13日、輦車を聴さる
承保元(1074)年1月28日、従一位
承保2(1075)年11月7日、勅聴乗牛車出入閤門
12月15日、左大将兼皇太子傅
承保3(1076)年、 病気により辞す
承暦元(1077)年正月中旬、疱彌留を患う。
2月13日、辞表を提出。
2月17日、左少将藤原有家勅使となり、辞表返却さる。
蔵人頭左馬頭俊実朝臣により太政大臣任の
通知がもたらされるが、出家し同日薨去。
源師房の和歌
通称土御門右大臣。藤原頼通の猶子となる。六人党のメンバーがほぼ出揃った長暦・長久の2度の歌合を自邸で開催し、また多数の歌合に出席、和歌の隆盛に努めた。日記『土右記』を著す。後拾遺集以下に10首入集している。
『十訓抄』第一、21
匡衡四代にあたり中納言匡房といふ人ありけり。帥になりてのちは江帥といはれける。才智先祖をつげり。宇治関白平等院建立のとき、地形の事などしめしあはせむがために、土御門右府を相伴せ給ひたりける。「大門の四足、北面ならでは其便なし。大門北面なる寺やはある。」ととはせたまひければ、右府おぼえざるよし答申されける。匡房卿はいまだ無官にて、江冠者とてありけるを、車のしりにのせて具せられたるを、「かれこそかかる事はうるさく覚えて候。」とて、めし出してとはれければ申やう、「天竺には那蘭陀寺、戒賢論師の住所。震旦には西明寺、円測の道場。日本には六波羅蜜寺、空也上人の建立。これみな大門北面なり。」とぞ申しける。
『十訓抄』第十 57
白川院御位のとき〜今度の御会には、土御門右大臣、序題を奉られけり。其詞云、
境近都城。故無車馬之煩。
路経山野。故有雉兎之遊。
とぞかかれたる。
『袋草紙』
江記に云はく、「俊兼曰はく、「先年土御門右府大納言の時の歌合に、棟仲講師となる。而して、『露嚢まる』の由の歌有り、敵方これを難ず。棟仲当座に古万葉集と称して、宜しき証歌一首を詠む」と云々。右府後日に感ぜられて曰はく、「当座に宜しき歌を読むの旨、捷対に似るといへども虚言に至りては便なき事なり」」と云々。
ここに着目!
| 源師房の鬱屈 |
師房は経歴を見る限り、右大臣にまで累進したのであるから、不満などはないだろう、と思いたくなるが、彼を取り巻いていた環境は複雑であったことを知るにつけ、その思いこみが誤解だったと言わざるを得ない。
師房の実父は具平親王である。師房は寛弘5(1008)年の出生だが、親王は寛弘6(1009)年7月28日に亡くなっており、2歳で父と死別したことになる。幼名万寿宮、のち資定王と呼ばれたという。
母については、『古今著聞集』456番によれば、「後の中書王、雑仕を最愛せさせ給ひて、土御門の右大臣をばまうけ給ひけるなり」とあり、具平親王家の雑仕女であった大顔という女性を親王が寵愛し、師房を生んだという。ただし、逸話の最後を「しかあるを、土御門の大臣の母は式部卿為平の御子の御女のよし、系図に註せる、おぼつかなき事なり。尋ね侍るべし」と結んでいるように、大顔母説に疑問を呈している。角田文衛『紫式部の世界』などで言われるように、これは若き日の具平親王が大顔に男子を生ませ、その子は紫式部の従兄伊祐のもとへ養子に出され頼成と名付けられたのを、誤って伝えたものと思われる。また、後に道長が頼通の後継者として選んだ者が、雑仕女を母とするのでは、尊貴の血を求めていた道長の意向にもそぐわないことになる。であるので、母は具平親王の正室、為平親王女とするのが正しいだろう。
その為平親王女は、時期は不明であるが出家したらしい。だが健在であったので、師房は実母や同母姉の隆姫と同居していたらしく、そのま何事もなく成長していれば、歴史に名を残したかどうかさえあやぶまれる、どこにでもいるような皇族の一人に過ぎなかったのである。
その彼の運命を変えたのは、姉の隆姫の結婚にあった。具平親王が亡くなる直前に、隆姫は頼通と結婚したのである。頼通は道長の長男で、道長が作り上げた摂関家としての地位は、将来頼通に譲られることになっている。その大切な長男に隆姫が相応しいと考えられたのは、源氏の尊貴の血筋によるものであることは疑いない。頼通は具平親王邸(六条邸)に通うようになる。隆姫は、年の離れた師房になつかれていて、弟を可愛がっていた。ために頼通も栄花物語に描かれているように「殿唯我御子のやうにうつくしみ奉らせ給ふ」という状況になったのは、当然の成り行きであった。
さて、寛仁4(1020)年、師房は13歳で元服、源姓となり、改名して師房と名乗った。そして万寿元(1024)年1月19日、17歳になった師房は正四位下に叙せられ、3日後の21日には、従三位に叙せられた。そして3月には、道長の肝煎りで道長の娘尊子(隆子)と結婚することになる。『頼通』では、この異様に早い昇進と結婚は、師房が頼通の養子となって、ゆくゆくは頼通から摂関職を譲り受ける者として道長から選ばれた証拠であろうと指摘している。頼通は32歳になっても実子が一人もおらず、痺れをきらした道長は、養子の師房を摂関の後継者に据えることにしたのだという。
ところが道長のお膳立てから一年もたたない万寿2(1025)年1月に、頼通に男子通房(母は祇子)が誕生する。師房はあっという間に、後継者の座を降ろされてしまったのである。ただし、一度摂関家の後継者と目された者を放り出すわけにはいかないというので、道長も頼通も師房に対しては気を遣っている。頼通は、祇子との間に通房に続いて5人の子を儲けるが、3人の男児は次々に養子に出され、摂関家の後継者としての資格を失っている。また、師房は通房に万が一の時は再び後継者となることを期待されていたものか、若年時の昇進や官位はかなり恵まれている。
しかし結局、摂関家後継者の座が師房に戻ってくることはなかった。通房は寛徳元(1044)年に20歳で没するが、そのころには頼通に師実という実子がいたからである。25歳で正二位になってから、従一位になる67歳までは実に42年、28歳で権大納言になってから、58歳で内大臣になるまで30年。51歳のときには、19歳の師実が内大臣となり、官位を追い越されてしまっている。通房・師実がいなければ、後継者になったはずの師房には、辛い現実だったのではないだろうか。
こうした経緯を見ると、たしかに晩年、従一位・右大臣になったとは言え、師房自身がその地位に満足していたとはとても思えない。むろん、そのことが直ちに師房を政治に倦ませ、和歌の道に関心を持たせたと安直に結びつけるつもりもないのだが、やはり多少なりと不遇感があったことは、政治以外の世界で何か成し遂げたいと、思うきっかけにはなっただろう。和歌六人党のメンバーがほぼ顔を揃えることで知られる長暦・長久の『権大納言源師房家歌合』が行われた時期は、師房の官位が停滞し始めた時期と重なっているのは、決して偶然ではないだろう。
六人党の家集から師房と関連のある記事を抽出してみると、「源大納言の家に八月に歌合あらんとしたるを延びて九月になりてければ十首の題の中に萩のありけるを今はほど過ぎにたりとて紅葉にかへられければその由を方の人々集まりて土器とちてよみけるに」「長暦二年九月十三夜源大納言の家に男女方分きて歌合せられけるに男方の九人のうちに召されて詠める(『頼実集』)」「於亜相(源師房)六条水閣、対泉忘夏(『家経集』)」「源大納言殿にて、『泉に向かひて夏を忘る』といふ題を(『範永集』)」「『岸柳垂糸』宇治殿にて源大納言殿(『為仲集』)」など。師房も、彼らをただ自邸に集めるだけでなく、自分も参加して歌を詠んでいた。六人党のメンバーは年齢にかなり開きがあるが、頼家や経衡、義清とはほぼ同年と考えられるから、身分を越えて歌の道を追求しようとするうちに、友情めいたものも生まれたのではないだろうか。
こうした想像には根拠になる資料があるわけではないが、自邸で歌合を頻繁に行うことの意味は、師房が才能ある歌人たちが和歌の道に精進できるようにと、心を砕いていたからと考えるべきであろう。そして、優秀な歌人たちが集う場所として源大納言家が存在するということを、世間に知らしめることの効果を、彼は計算していたに違いないのである。師房が壮年に達した11世紀半ばは、頼通が摂関として長らく政権を維持しており、政治的には比較的安定した時代をもたらした。頼通自身も主催者・後見として幾つもの歌合を開催している、という時勢であってみれば、和歌に造詣が深いということは、かなり価値のあることと言えよう。
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