藤原道雅

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事跡: 
 正暦3(992)年、出生、幼名松君
 長徳2(996)4月24日、 父伊周、配流となる
 長徳3(997)年12月、 伊周、帰京
 長保3(1001)年、伊周、復位
 長保6(1004)年1月6日、彰子御給により叙従五位下(『御堂関白記』)
 寛弘2(1005)年1月21日、侍従(『中古歌仙三十六人伝』)
            1月29日、元服・昇殿(『御堂関白記』)
 
寛弘3(1006)年1月28日、任右兵衛(権)佐
 寛弘4(1007)年1月13日、任五位蔵人
            2月28日、道長春日社詣に舞人を勤める(『『権記』』)
            4月17日、斎院選子内親王の御禊に織物・赤の袍を着て参加
 
寛弘5(1008)年1月11日、冷泉院去年の御給を以て正五位下昇叙
            1月28日、任右近少将か
            2月1・2日、春日祭使の命があるも新任により辞退(『御堂関白記』)
            
9月17日、敦成親王の七夜の儀にて勅使となる
 寛弘6(1009)年1月7日、脩子内親王御給により叙従四位下
            1月13日、叔母高階光子らが彰子・敦成を呪詛した事実が発覚、
                   伊周朝参を停止さる
 寛弘7(1010)年1月28日、 伊周、没(37)。服喪により少将を辞するか
 寛弘8(1011)年2月10日、東宮殿上を聴さる
            6月13日、敦成親王の東宮立坊にともない、春宮権亮となる
            8月11日、天皇が東三条邸より新造内裏へ移御の折、禁色を聴さる
            8月23日、藤原行成息良経の元服に出席(『春記』)
            10月7日、帯刀試に参仕
『御堂関白記』)
 長和元(1012)年1月15日、東宮御給により叙従四位上。
            4月10日、敦明親王の雑色に瀕死の重傷を負わせる
            4月23日、道長賀茂詣に従う
            4月24日、賀茂祭で東宮使を勤めるも、宣旨に背き怠状(始末書)を
                   提出させられ、怠状も「奇怪」により再提出となる
            8月13日、教通・頼宗ら公達が長櫃を具して嵯峨野に野遊
            8月26日、9月27日の斎宮当子内親王(三条天皇皇女)の
                   野宮に入る儀に前駆を仰せつけられる
 長和2(1013)年、息男覚助出生(母不明)
 長和3(1014)年3月、能信の昇進に関し天皇が「道雅不恪勤」と発言
            4月19日、賀茂祭に参仕
 長和4(1015)年1月18日、任左中将
            5月28日、東宮帯刀手結に参仕
            10月29日、平野祭・春日祭の東宮使を予定されるも辞退
            大和宣旨、観尊生む
 長和5(1016)年2月6日、蔵人頭を望むも容れられず、叙従三位
            6月2日、天皇の上東門院邸より新造内裏への遷御に供奉
            9月5日、斎宮当子内親王が御世替わりにより帰京
            この後、当子内親王と密通し世人の噂に上る
 寛仁元(1017)年4月10日、母后娍子、当子を自邸に迎えとらせる
            7月22日、彰子の祖母周忌法要に参列
            8月、蝗害による廿一社奉幣使発遣で松尾・平野使を命ぜらる
            8月9日、敦良親王立坊の儀に参仕
            8月21日、東宮の拝覲に参仕
            9月22日、道長・倫子・威子らの石清水参詣に騎乗で供奉
            10月5日、射場始の儀に参仕
            11月9日、賀茂社行幸の無事祈願の奉幣使を辞退
            11月10日、道長二条邸移徙、饗饌・攤に参会
            11月25日、行幸・臨時祭に参仕
            11月30日、当子内親王、出家
 寛仁2(1018)年3月25日、天皇が威子の直廬に渡御するのに、伺候
            5月、道長の法華三十講に参ず
            10月5日、射場始の儀に参仕
            10月22日、道長上東門院邸への行幸啓に参ず
            11月2日、平野・春日祭に参仕
            11月22日、豊明節会に参仕
            12月6日、隆家男経輔の元服に出席
            12月14日、道長の両親を供養する法華八講に参仕
            このころに大和宣旨と離別
 寛仁3(1019)年1月22日、伊予権守辞す
            2月15日、彰子の宮中講経に参仕
            2月28日、尚侍嬉子の着裳に参ず
            3月13日、石清水臨時祭に参仕
            3月21日、道長出家・妍子行啓に供奉
            3月22日、彰子行啓に供奉
            5月1・13・19日、道長邸法華講に参仕
            6月22日、彰子の一条帝法華経供養に参仕
            7月27日、相撲召合に参仕
            8月6日、大極殿御読経に参ずるも、散三位の出席前例なしと非難さる
            8月20日、頼道の賀茂社参詣に供奉
            12月6日、隆家男経輔の元服に出席
            12月14日、道長の両親を供養する法華八講に参仕
            このころに大和宣旨と離別
 寛仁4(1020)年9月12日、宮中祓に参ず
            11月27日、脩子内親王養女の着袴に参ず
 治安元(1021)年4月29日、六波羅蜜寺より帰参の際、誤って川に落ちる
            9月10日、妍子女房らの無量寿院経供養、講説に聴聞
 治安2(1022)年5月26日、頼道の賀陽院競馬に参ず
            7月14日、道長の法成寺金堂供養行幸に参仕
            9月、当子内親王、没 
 治安3(1023)年1月2日、彰子への朝覲行幸に参仕
 万寿元(1024)年1月26日、伊予権守任
 万寿2(1025)年7月25日、検非違使捕縛の法師隆範が道雅の命で
                   花山院の皇女を殺害したと自白
 万寿3(1026)年4月27日、伊予権守・左中将を罷免、右京権大夫に任ず 
 長暦2(1038)年正月、丹波権守
 長久3(1042)年、丹波権守を辞す
 寛徳2(1045)年10月、左京大夫に遷る
 永承2(1047)年ごろ、『左京大夫道雅障子絵合』を催行
 永承6(1051)年、備中権守
 天喜2(1054)年7月20日、出家ののち没

藤原道雅の和歌

『袋草紙』
道雅三位は、帥大臣殿の息なり。八条の山庄の障子の絵に、歌合に読ましめて撰びて書かしむ。作者は、兼房・家経・範永・経衡・頼家等なり。
『袋草紙』
また連歌を歌一首に取り成して撰集に入るるは常の事なり。後撰に云はく、
白露のおくにあまたの声すれば花のいろいろありと知らなん
また玄々集に云はく、
もろともに山めぐりする時雨かなふるにかひなき身とはしらずや
これは道雅の歌と称す。今一人は甚だ損ずるか。ただし末句をもって主となすか。
『袋草紙』
大様意に染みぬる事には、宜しき歌出でくる者か。然れば道雅三位はいと歌仙とも聞こえざるに、斎宮に秘かに通ふ間、歌は多く秀逸なり。いはゆる、
相坂は東路とこそききしかど心づくしのせきにぞ有りける
今はさは思ひたえなんとばかりを人づてならでいふ由もがな
「をだえのはしやこれならん」「ゆふしでかけしそのかみに」「なくよりほかのなぐさめぞなき」等なり。この外は聞かざる者なり。思ふままのことを陳ぶれば、自然に秀歌にしてあるなり。これ志中に在れば、詞は外に顕はるるの謂か。この斎宮は三条院第一皇女なり。密通の由風聞して、上よりまもりめ付けられて通ひ難きの間の恋慕の歌なり。ある人、露顕の後に宮は出家、また身に大なる瘡ども多く出でて薨去すと云々。
『十訓抄』第五、11
三条院皇女、前斎宮も、道雅の三位にあひ給ひて、世の人しるほどに成にければ、御ぐしおろさせたまひてけり。三位は帥の内大臣の御子なれば、致光にはにるべきはあらねども、すべてあるまじき御ふるまひなり。三位は関もりきびしく成にければ、せうそくをだにたてまつらぬほどに、あまた歌をぞよみたりける。其の中に、
逢坂は東路とこそ聞きしかどこころづくしの名にこそありけれ
今はただおもひたえなんとばかりをひとづてならでいふよしもがな
『大鏡』(上)左大臣師尹
この宮たちの御妹の女宮たち二人、一所(当子)はやがて三条院の御時の斎宮にて下らせたまひにしを、上らせたまひて後、悪三位道雅の君に名だたせたまひにければ、三条院も御悩のをり、いとあさましきことにおぼし嘆きて。尼にならせたまひて、うせたまひにき。
『大鏡』(中)内大臣伊周
 かかれどただ今は、一宮(敦康)のおはしますを、(伊周は)たのもしきものにおぼし、世の人も、さはいへど、したには追従し申したりし程に、今の帝(後一条)、東宮(後朱雀)さしつづき生れさせたまひにしかば、世をおぼしくづほれて、月頃御病もつかせたまひて、寛弘七年正月廿九日うせたまひにしぞかし。かぎりの御病とても、いたう苦しがりたまふこともなかりけり。御しはぶきやみにやなどおぼしける程に、重りたまへりければ、修法などせむとて、僧召せど、参るもなきに、いかがはせむとて、道雅の君を御使にて、入道殿に申したまへりける。夜いたうふけて、人もしづまりにければ、やがて御格子のもとによりて、うちしはぶきたまふ。道長「たれぞ」と問はせたまへば、御なのり申して、道雅「しかじかの事にて、修法始めむとつかうまつれど、阿闍梨にまうでくる人もさぶらはぬを、請じてたまはらむ」と申したまへば、道長「いと不便なる御事かな。えこそ承はらざりけれ。いかやうなる御心ちぞ。いとたいだいしき御事にもあるかな」といみじう驚かせたまひて、道長「たれを召したるに参らぬぞ」など、くはしく問はせたまふ。なにがし阿闍梨をこそは奉らせたまひしか。されど、世の末は、人の心も弱くなりにけるにや、悪しくおはしますなど申ししかど、元方の大納言のやうにやは聞えさせたまふな。又、入道殿下なほ勝れさせたまへる威のいみじきにはべめり。
『大鏡』(中)内大臣伊周
 男君は、松君とて、生れたまへりしより、祖父おとどいみじきものにおぼして、迎へ奉りたまふ度ごとに、贈物をせさせたまふ。御乳母にも饗応したまひし君ぞかし。この頃三位しておはすめるは。この君(道雅)を、父大臣(伊周)、「あなかしこ。あなかしこ。わがなからむ世に、あるまじきわざせず。身捨てがたしとて、ものおぼえぬ名簿うちして、わがおもて伏せて、『いでや、さありしかど、かかるぞかし』と、人に言ひのたてせさすな。世の中にありわびなむきはは、出家すばかりなり」と、泣く泣くのいひおほせたまひけるに、この君(道雅)当代(後一条)の東宮にておはしましし折の亮になりたまひて、いとめやすき事と見奉りしほどに、春宮の亮道雅の君とて、いとおぼえおはしきかし。それもいかがしけむ、位につかせたまひしきざみに、蔵人頭にもえなりたまはずして、坊官の労に、三位ばかりしたまひて、中将をだにえかけたまはずなりにしこそ、いとかなしかりし事ぞかし。あさましう思ひがけぬ事どもかな。
 この君帥の中納言惟仲の女にぞすみたまひて、男一人生ませたまへりしは、法師(観尊)にて、明尊僧正の御房にこそはおはすめれ。女君(惟仲女)いかが思ひたまひけむ、みそかに逃げて、今の皇太后宮(妍子)にこそ参りて、大和宣旨とてさぶらひたまふなれ。されば、年頃の妻子とやはたのむべかりける。なかなかそれしもこそあなづりて、をこがましくもてなしけれ。〜(中略)〜さつは、かの君(道雅)、さやうにしれたまへる人かは。たましひはわきたまふ君をば。

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遺言を守った道雅

 道雅の人となりについては、何と言っても『大鏡』の描写に尽きると言っていい。『大鏡』は具体的な事件や出来事から、当事者の気性を的確に導き出すことを得意とするが、道雅のくだりもその典型である。
 道雅の場合、その出来事とは、
・伊周の病が重くなったとき、修法を行う僧侶がおらず、道長に助けを求めたこと。
・伊周は生前、自分を枉げて他人に仕えるような真似はするなと遺言していたにもかかわらず、結局道長に仕える形になってしまったこと。
 この二つである。どちらも第三者から見てさえ気の毒に思ってしまう。道雅は、伊周が亡くなる前から、すでに遺言を違えて道長のところへ頭を下げに行かなくてはならなかったのだ。父の伊周が病気とあれば、背に腹は代えられぬというところだったのだろう。ただ、道雅の長い人生において、問題だったのは伊周の遺言だ。道長全盛の世の中で、官僚として貴族社会の中にしか生きることを許されない道雅には、遺言を守り通すことなど初めから不可能であった。伊周もそれは承知していたからこそ、「それが無理ならば出家せよ」と言ったのである。
 道雅は、しかし出家しなかった。現世に執着していたということもあるだろうが、それだけではない。道雅の脳裡には、政治抗争に敗れて怨霊と化し、常に眉を顰めて語られる過去の人々のことがあったのではないか。『大鏡』には、伊周が元方のように怨霊となったという噂を聞かないのは、道長の威光のおかげだとしているが、それを道雅は、自分がきちんと出世していくことで、冥土の父を満足させてやりたいと思ったのではないか。
 現に、長和・寛仁年間の道雅は、道長、広い意味では朝廷に対して、精勤している。途中、蔵人頭を望んで果たされなかったこと、そして当子内親王との密通という事件があったけれども、これとて残された和歌を見る限り、道長や三条天皇に対する意趣返しということではなく、当子内親王を真実愛していたと考えられる。
 その鋭意努力していた道雅に変化がみられるのは30代にさしかかる治安年間以降であろう。記録類に登場する数が次第に減り、万寿2年には殺害事件の首謀者として嫌疑をかけられるまでになってしまう。そうした荒みようが悪三位、荒三位と称された所以なのだろうが、これは道雅がそのころから、自分の努力が正当に評価されることはないと感じ始めていたからではないだろうか。いつまでも名目だけの三位であることに堪えられず、かといって自暴自棄になることもできず、道雅が考えた末に選んだのが、政治や官僚としての自分に重きを置く生き方ではなく、歌人・風流人として生きる世界ではなかったか。それはまた、伊周の遺言を守る方便でもあった。出家はしないが、道長に屈しもしない。風流韻事の世界は彼に残された道だった。
 『大鏡』が最後に記しているように、道雅は決して馬鹿な人ではなかった。むしろ分別があったとしている。和歌六人党を自邸に招き、山荘の障子絵合などをこなせる人物だったことから考えると、これは当を得た一文だと思われる。
 

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