事跡:
生年未詳。
万寿2(1025)年7月、蔵人検非違使で丹生使
長元9(1036)年、このころ周防内侍出生?
長暦2(1038)年9月13日夜、 『権大納言源師房家歌合』出詠
長暦3(1039)年、内侍所神楽の歌人となる
長暦4(1040)年9月、内侍所神楽の歌人となる
長久2(1041)年4月7日、『権大納言源師房家歌合』出詠
康平2(1059)年、この年以降没?
和歌六人党の一人。因幡守・周防守などを歴任した。極官は従五位上。
歌合の講師を勤めた際、論難されて偽作の証歌を詠んだという逸話が残っている。後拾遺集のみ入集。娘に歌人の周防内侍がいる。
平棟仲の和歌
『袋草紙』
江記に云はく、「往年六人党あり。範永・棟仲・頼実・兼長・経衡・頼家等なり。頼家に至りては、かの党頗るこれを思ひ低(かたぶ)く。範永曰はく、「兼長は常に佳境に入るの疑ひ有り」。これ経衡の怒る所なり」。また云はく、「俊兼の曰はく、「頼家またこの由を称す。為仲、後年奥州より歌を頼家の許に送る。『歌の心を遺す人は君と我なり』と云々。頼家怒りて曰はく、『為仲は当初(そのかみ)その六人に入らず。君と我と生き遺るの由を称せしむるは、安からざる事なり』」」と云々。
『袋草紙』
江記に云はく、「俊兼曰はく、「先年土御門右府大納言の時の歌合に、棟仲講師となる。而して、『露嚢まる』の由の歌有り、敵方これを難ず。棟仲当座に古万葉集と称して、宜しき証歌一首を詠む」と云々。右府後日に感ぜられて曰はく、「当座に宜しき歌を読むの旨、捷対に似るといへども虚言に至りては便なき事なり」」と云々。
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