フリッツ・ヘンカー先生(3)

 

ヘンカー先生にはそれなりに気に入って貰えたようで、他の人には教えないがと教えて貰えた事もありました。ある時「お前はドイツ語は出来ないが、英語が出来るから南アフリカのオケに行ってみないか。ヨハネスブルクだが」と言われました。み、みな、南アフリカ〜??と言う感じでしたね。この時はドイツも行って無いどころか、沖縄にも行った事がありません(今も四国と沖縄だけ行ってない!)。アフリカの先に行くと大きな滝があって、みんな落っこちてしまうんだ、と思っていたくらいです。二の句が接げずに、何と無く行きたくなさそうにしたので、それ切りになりました。後で知ったのですが、ウィーン国立歌劇場の登竜門だったそうですよ、お兄さん!ツェーマン、ファルトルと言った人達もそこから入ったそうな。う〜ん、行って置けばよかったのか、しかしその後の世界情勢を考えると行かなくてよかったのかも....。

ドイツに行ってみたい、とは前から思っていて留学も考え、そのつもりでもいたのですが行き先が決まりませんでした。そうこうしている内に菅原先生からヘンカーさんに付いてみるかと言われたんです。いろいろ教えてもらっていると、ドイツに行かなくてもいいかと言う気持になっていました。そんなある日、先生から「お前はドイツに行きたいのか、ズガワラからきいたが」と言われました。

彼は北ドイツの人なので単語の頭の「S」は必ず濁ります。巣鴨(芸大の客員教授の官舎ガある)は「ドイツ語だと、ズガモだ〜」などと酔った時に言っておられました。だから菅原先生も、ズガワラです(^_^;)。まあ、おちゃめな人でした。一つエピソードを挙げましょう。巣鴨の駅前の大衆食堂が気に入っていて、一度連れて行かれましたが、ニワトリの真似をして「クックックー」なんてやるんです。そうすると店の人が「はい、いつもの奴ですね」と言って唐揚げ定食を持って来るんです。「ここのミゾスープは美味い」なんて言いながら食べてると、店の人がサービスに果物を持って来てくれたりしました。やっぱり気持なんでしょうかねえ。気難しい所もありましたが。

話を戻しましょう。「バイロイトで音楽祭と並行して青少年音楽祭がある。オペラも見られるし、オケも出来るぞ」と言う有難い話。もちろん二つ返事で行く事にしました。これは大きかったですね。前の楽器を売った金で旅費を工面しました。まあドイツ語も出来ずにドイツの事も知らずに、1ヶ月以上でしたが、よくも行ったものです。

ドイツに行って困ったのはリード。乾くんです、日本より。持って行ったリードが全く使えなくなりました。それからです、本気でリードに取り組むようになったのは。この旅では色々な事が分かりました。面白い事も沢山、恥も随分かきました。これだけで本が書けそうなので、この件はまた別な機会に。

日本に戻ってから自分が変って行くのが分かりました。行ける時には、行って置くものです。この後10年は行かなかったのですが、改めて行った時にまた大きな出来事がありました。ドイツは私にに取ってはLucky Landですね。迷った時に行くといつも良い事があります。

その後も色々な事がありましたが、このくらいにして置きましょう。ヘンカー先生が任期を終えられ戻られたハンブルクまで追いかけて行き、その後も弟子だった(音楽院で教えておられたので)多田逸左久君に比べれば、お付き合いした時間は短かったけれど、大変な影響を受けました。時間だけじゃないんだと思いますね。それにヤマハのファゴットの開発に深く関与されていたので、知らない内にみんな影響を受けているかも知れません。

長くなりました。この他のエピソードはまたの機会に別ページで。

 

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