私の音楽の先生は菅原先生と三田先生、そしてヘンカー先生と言う事になります。ヘンカー先生の事は、皆さんにも参考になる事があると思うので、少し多く書こうと思っています(もちろん他の師も同様に素晴らしいのですが)。残念ながら、数年前に亡くなられた様です。
オペラとの出逢いも先生を通じての事でした。HPでは書き切れないくらい面白い話を聞きました.大して長く教えを受けた訳でも無いのですが、影響は大きかったですね。菅原先生の所に写真がある筈なんですが、先生が整理されないので手元に無いんです。180cmを越える人でしたが「私は身長の割に指が短いからファゴットに向いているのだ」と言われた時は、カルチャーショックでした。指が長くないと不利だと思い込んでいたからです。でも、確かにそうなんです。長い指で困る事の方が遥かに多いですよ。
ヘンカー先生は、ハンブルクのシュターツ・オパー(バイエルン、ドレスデン、ベルリン、シュツットガルト等と並び称される名門オペラ)の首席奏者を永らく務められ、バイロイト音楽祭の祝祭管弦楽団でも10年に渡り演奏されるなど、実に素晴らしい経歴の方でした。元々オペラ歌手になろうと思われたそうで、ワグナーを誰よりも愛する人でした。歌手だったらきっと立派なヘルデンテナーになられたでしょう。元々はザクセンの方だそうで、ドイツでもザクセン人は優秀だと定評があるそうです。ドイツ分断の折にハンブルクに住み着く事になられたのでしょう。
何せ戦前からの演奏家ですから、ナチス時代の話も飛び出します。戦争中は2度連合軍の捕虜になり、2回とも脱走したとか。写真を見せて下さった事もありましたが(記憶に間違い無ければ)指揮はフルトヴェングラーで最前列には軍服の高級将校が。「これはゲッペルス(ナチス宣伝相)だ、隣はヒムラー(警察長官)....」何と、歴史上の人物が。さすがだ。
他にも例を挙げれば、リーバーマン(オーボエ)と管楽五重奏を演奏している写真などもあり、その他色々。指揮者ではベームと最初にやった時は、ベームに散々練習で言われ、そのあと指揮者の部屋で大喧嘩して、それで仲良くなったとか、全く夢の様な話が沢山。録音も色々聴かせて貰ったし、ヤマハで見付けた自分のLP(リヒター指揮のバッハのカンタータBWV.202「結婚カンタータ」)をカミさんにプレゼントして下さった事もありました。
面白かったのは、戦後録音したと言うジェイコブの協奏曲とサン=サーンスの録音が76cm/1トラックと言う凄い録音。アセテートテープのハブ巻きでNHKに何とかして貰おうと思って断られたと言う代物。私は成算があったので、引き受けましたね。オーディオに精通した友人の家にそれを持込みました。ターンテーブルを二つ並べ、片方に10号リールを置き、ハブ(ボール紙の台に穴を開け)から注意深く巻きました。そして2トラ38のオープンデッキで再生。当然、半分のスピードなのでオクターブ低いのですが、受け手のデッキを9.5cm/sで録音すれば19cm/sで再生した時に通常の状態になります。で、実際そうなりました。ヘンカー先生にはそのリール巻きのものと、7号リールのダビングをお渡ししました。何せ元が短トラックですから、情報量は確かに減ってますが、ヘッドはギャップが狭くなっているので変換したものとしては、良いところでしょう。2分の1インチオープンテープに、びっしり情報が刻まれているという訳ですからモノーラルとは言え大変にクリアーなものでした。どうも、デジタル時代の昨今ではのどかな話ですね。
話が前後しますが、ヘンカー先生に付く事になったのは、三田先生が亡くなった年に三田先生の要請で芸大の客員教授として来られたのが奇縁です。留学しようとして果たせず、どうしようかと思っていた時に、菅原先生から「ヘンカーさんに付いてみるかい」と言われたのです。菅原先生が、懐広く送り出して下さったのは実に有難い事でした。
たまたま秋葉原でお見かけして(三田先生の葬儀に出席されていたので、尊顔は存じあげていました)声をおかけした事もあり、菅原先生に同道願って巣鴨の芸大の客員教授住宅に赴きました。これが実に立派な建物なのですが、それはまた改めて。私は英語で、先生はドイツ語で話をしました。早速レッスンなのですが、何とフィンガリングを直す所から始まりました。言って置きますが、この時の私のフィンガリングは日本の標準的なものです。と言うより世界中何処へ行っても直される必要のないものでした、普通には。
例えばFisは指を10本全部、バットの二つのFisキーを遣います(その内書きますが)。中川さんは高い方でロングジョイントのEsキーを抑える、キャムデンのバスーンのテクニックでもそう書いてあります。でも、これは絶対に使うなと言われ面食らいました。揚句に、ヘッケルじゃないと(ピヒナー使ってました)いけない様な事も言われ(何せヘッケルを知りつくしている様な人でしたから)、「お前は良く吹くけど、その音だと放送オケなら良いがオペラのオケだと邪魔になる」とも。当時はオペラは私の照準に入っていなかったので、益々面食らいました。兎にも角にも、レッスンを受けられる事になり、お蔭で半年以上の悩みが始まったのです。(続く)その2へ