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宗教を読む / 人は神になれるか

◆嫉妬心
 キリスト教で云う七つの大罪とは、 傲慢・嫉妬・憤怒・怠惰・強欲・暴食・色欲とされる。 これらは「罪」そのものと云うよりは、人間を罪に導く可能性があると (伝統的にキリスト教徒により)みなされてきた欲望や感情のことを指す(Wikipedia)。
 
 仏教での(守るべき個人の心構え)とは、 八正道(はっしょうどう)のことを云う。
 八正道とは、
正精進:欲望、嫌悪、嫉妬などのあらゆる執着心を捨て去ること
正念:あらゆる知識を習得すること
正見:ものごとを客観的に観察すること
正思:ものごとを客観的に判断すること
正語:ものごとを客観的に語ること
正定:ものごとを自分の頭で考えること (定とは禅定、瞑想や精神統一の意)
正業:慈悲深く行動すること
正命:慈悲深く生活すること(以上、仏教研究所)
 
 以上のように世界宗教においては、嫉妬は戒律上、最上位に位置づけされている。 人として、嫉妬心を抱くことはあってはならないのである。
 つまり、人の本性の根源は、嫉妬にあると云うことである。
 
 一方、私が想うには、 ギリシア神話などで云われてきている「神は気まぐれ?」と云う概念においては、 神の意(意志)は、意中を選択することで行使されるので、 意中=気まぐれ=嫉妬心とは、実は神の本気=本性であると解することが出来る。
 また、愛の宗教と自認するキリスト教でも、神は自らを 「嫉妬する神」としていることでもうなずかれる。 神の本性は、愛=嫉妬であると云うことである。
 愛とは、仏教では慈悲と置き換えられ、慈悲は、仏陀の救済=本性そのものである。
 
 人間の愛は、人の心の具体的かつ深奥の行動表現である。 対象が如何なるモノであれ、人自身が本気になることで愛が成就する。 そして、究極的には嫉妬へと収斂する − このことは必然的な成り行きである。
 換言すれば、人の心を最も強く惹き付けるのはであり、 愛→嫉妬→本気=本性へと推移し進行する。
 
 このように考えると、実は、神(仏も)の本性と、人の本性とは元々同じものであり、 その故に競合することとなる。
 したがって、(世界宗教上)神が人より上位の地位を確保するためには、 人から嫉妬心を奪わなければならないのであろう……。
 
 しかして、神=人となったとき、人は自らの嫉妬心を自ら制御しなければならなくなる。
 その最善策は、内側に対しては、人自らが自らにプロテスト − 自己改革 − することであろう。
 〔潔白の証明ほかの項参照〕
 同じく外側に対しては、共存共栄と云う概念の登場であろう。
 〔敬神生活の綱領の項参照〕

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