◆潔白の証明 * 為政者による宗教への政治介入 聖書の原点は、共同体の維持拡大にある。 そのためには、共同体への一個人ごとの役割 − 団結心・忠誠心・行動力 − が重要となる。 そのため、一個人に対する規制 − 律法の遵守義務 − が厳しいものとなる。 規制が厳しければ厳しいほど、その共同体の団結は強固となるのである。 何れにせよ、個々人のなすべき役割が最重点課題となる。 一方仏典においては、その原点は一個人の(勝手気ままなと思えるような) 空想の世界への逃避にある。 この場合の絶対的な前提条件は、 一個人の目的(修行と云う欲望)を支えるところの財政(経済支援)の裏づけである。 財政の裏づけなくして、修行者は解脱の世界へは到達出来ない。 したがって、経済支援団体たる国家(一族)の組織機構云々を問う必要はない。 国家は、民主国家でも、専制国家でも、封建国家でもよく、要は経済支援をすればよいのである。 ここで考えられるのは、宗教に対する為政者の政治的介入である。 聖書の世界では、為政者は、神≒為政者、乃至は教会≒為政者の衣を纏って、 国民を支配することにあった。 仏典の場合は、為政者は、個々人が解脱修行に専念することを楯に − 修行者=国民は無抵抗なるが故に − 国民を支配することにあった。 * 潔白の証明 さて、私共は理想社会を現実に創るべく行動することが、 私共個々人の生涯の課題であり、私共個々人の幸福への道であると集約され総括され得る。 神=人と云う構図によって、この課題を遂行するには、 個々人のなすべき役割 − 正義感道徳律 − が最重要事項である。 如何にして、自己を律することが出来るのであろうか、 日常の自己の潔白を如何にして証明出来得るのであろうか。 第一義的には、一年に一度行なわれる(鎮守の杜の) 産土神(うぶすながみ)の例祭祭式の参列することにある。 時処位の構図が粛粛と形作られ、清々しく荘厳な雰囲気に浸ることで、 自己の存在が再認識されるであろう。 また、各種奉納行事に参加することも一方法であろう。 この場合、お祓いを受けることとなるが、お祓いには、 参列者の日常の罪や穢れを祓い清めることのほかに、 お祓いそのものが罪や穢れを吸い取ってくれる役目を持っていることである。 何れにしても、個々人自らが、清く正しくなろうとする心意気が必要なことは論をまたない。 例祭祭式に参加できないときは、随時に、又は他の神社へそれぞれ参拝することを勧めたい。 或いは6月晦日の夏越(なごし)の祓え、大晦日の大祓えにも参列して欲しいものである。 神社へ参拝すると云う行動と、神社境内の静寂な佇まいの中で、 自己の存在 − 清廉潔白 − を再確認するのである。 木々深き参道に射す日の光 進み行く影我のみならず [守] |
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