◆宿命・共存共栄 * 宿命 宿命(しゅくめい)とは、 「前世から定まっており、人間の力では避けることも変えることもできない運命。 宿運。」(goo 辞書) さて、世界宗教において、その教義教典を広く徹底する − 布教する − 場合の常套手段は、 「私は教える人、あなたは教わる人」の構図である。 聖書では、神(啓示)→戒律(教義教典)→聖職者(教える側) − 人々(教わる側)、 仏典では仏法僧、つまり仏(仏陀)→法(仏典)→僧(教える側) − 人々(教わる側)とそれぞれ図示される。 この場合、教える側と教わる側の上下関係は、決して入れ替わることはあり得ないし、 更新されることはない。 これは、いわゆる宿命であり、この宿命は拭い去ることは出来ない。 教える側/教わる側=権利/義務……の構図は、「プロテストの本音」の項でも述べたように、 結果としてのいわゆる収支トントンを指向しているものと理解するので、 「人類全体の発展進化」はあまり期待出来ないと思われよう。 私共は誰でも、日々の生活を正(プラス)指向して営むことで、 結果として「人類全体の発展進化」が進行して行くものと認識している。 そのためには、神=人たる、自然の営みの中で、 随時入れ替わり〜更新されて行くものを最良と確信する。 ここで指摘したいのは、更新の対象となる既成概念 − 先人賢人たちの業績は 決して非難廃棄されるものではなく、その業績を多とした上で、 更に進歩繁栄することである。 * 共存共栄 共存共栄とは、 「二つ以上のものが互いに敵対することなく、ともに生存してともに栄えること。」(goo 辞書) 世界宗教においては、教徒と異教徒、邦人と異邦人などなど、 相対するモノを敵対関係として位置づける。 この敵対関係は、決して友好的にはなり得ない。 ここで指摘したいのは、このような敵対関係の構図においては、 敵対同士のそれぞれに、「目には目を、歯には歯を」の概念が存続することになり、 他方が敗北消滅しない限り、両者間の抗争は永続することとなる。 〔目には目を、歯には歯を ・死語の項参照〕 現実に、相対するモノの間には、地域や人種、経済的・社会的基盤、価値観(思想哲学)、 教育の程度などにおいて、いわゆる差別や格差などが存在するとされる。 世界宗教においては、それぞれの個別宗教とも、 これら(差別格差)の平均化平等化を図ろうと試みられているが、 「宗教」そのものの本質や手法などが異なるため、平均化平等化は永遠の課題 − 平均化平等化は実は不可能 − であり、 宗教間の抗争は後を絶たない。 私はこのような抗争を、「烏合の衆の身内喧嘩なのでは?」と思いたくなる。 何故なら、先人賢人はじめ世の人々は、このことを充分承知しておきながら、 持論の殻に閉じ籠り、自己改革を拒み続けているのである。 相対するモノ同士に平等観が見られないときは、そのときは相対するモノ同士が、 共存共栄の考えで対処する必要があろう。 お互いが、共存共栄を指向するならば、当然にして差別格差が是正されることとなる。 各人各国において、それぞれが神=人(国)としたならば、友好裡にことが運ばれ、 相対立するモノ同士の流通同化が図られ、ひいては、 いわゆる「差別格差」に由来する不平等観(=概念)は解消されて行く (=有名無実化)ものと確信する。 しかして、差別格差があることで、 人類の進化も、教育も経済も……成り立つことである。 故に、一方の価値観のみで、差別格差を非難してはならないと思う。 価値観とは、必ずや「入れ替わることがあり得る」 「更新するものである」 − 時(例えば時代や年齢など)と共に変容するのである。 〔私の神道→更新の項参照〕 教わる側が教える側より優位に立てる機会(教わる権利・教える義務)、 子がやがて親になれる機会、 差別格差の更新 − 私共はそのために自己を改革(プロテスト)しつつ、生を是とし、 意義ある人生を送りたいものである。否、送ることが出来得る。 |
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