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宗教を読む / 人は神になれるか

◆好戦的
 いかなる民族も、その繁栄永続 − 勢力拡大 − を指向しない民族はない (民族は、家族、一族、国家と置き換えることも出来る)。自明の理である。
 そのためには、敵対するモノが存在すれば、戦いを挑むことになる。
 好戦的とは 「戦いを好む傾向。すぐに武力を用いようとする傾向。」とことであるが、 これは成人男子の得意な分野ではないと、私は思う。
 
 人は、家族の生活を維持するために狩猟する。 この場合、成人男子の方が、女性より逞しい体格を持っているので、狩猟は主に男子が受持つ。 男子は果敢に狩猟する。これも自明の理である。
 しかし、人対人同志が敵対関係にあったときは、 必ずしも男子が戦いの先頭に立つことはしないと思う。
 〔武士道:はじめにの項参照〕
 
 今現在の歴史の記述を見ると、ほとんど全ては男子側に立脚した記述である。 しかし、実態は必ずしもそうではない場合が多々ある。
「アメリカ人はその妻を他人の前で接吻し、 私室にて打つ。日本人は他人の前ではこれを打ち、私室にありては接吻する」
 〔武士道:克己の項参照〕
 即ち、新生アメリカなどは別として、多くの民族においては、 自宅たる家庭で歴史が作られ彩られ進行してきたのである。 女性の発議なくして、戦闘は勃発しないのである。
 
 宣戦布告の大義名分としては、自国を守るためとか、他国の侵略とか、国間の均衡への脅威とか、 自由平等〜平和を守るためとか……とかいろいろ主張されるが、 実は、その基となるのは、民族の繁栄永続を確保することにある。 国←民族←一族←家族←主婦たる女性を守るために、 国の象徴たる国家元首の名において、成人男子の最重要任務として、戦闘が開始されるのである。 もし、大義名分の中身が、たとえ正義に溢れ、理想的な思想哲学を網羅しているとしても、 その根底に家族の生命のことが謳われていないならば、 それは単なる理屈の羅列にすぎないであろう。
 
 聖書においては、神の名の下に戦争が行われた。
 〔「戦う神」のパレスチナ侵入の項参照〕
 アメリカ人が新大陸アメリカを征服するとき、 『神によって与えられたこの大地を、最大限に資源として活用し、豊かな人工の楽園を築くことこそ、神の恩寵に答える、唯一の道である』(環境自由大学)と。 そして、その障害となるものは、神の名において駆逐されていった、とされる。
 アメリカ人に限らず、西洋の白人種は「帝国主義」の時代に、 世界中で、有色人種の異教徒を神の名の下に虐殺したとされている。
 
 イスラム教では、 ジハードとは、「イスラームにおいて信徒(ムスリム)の義務とされている行為のひとつ。 @個人の内面との戦い。内へのジハードと、A外部の不義との戦い。外へのジハード、とがあるが、 普通はAの外へのジハードのことを云う。
 一般に「聖戦」と訳されるジハードが、ここで云う「外へのジハード」である。 (外への)ジハードとは、イスラーム世界を拡大あるいは防衛するための行為、戦い。」(Wikipedia)
 
 このように聖書の宗教においては、民族は、に代わって(神の名において) 戦争を行い、正当化する。 この場合でも、神の背後には、国民たる家族が存在している。
 〔キリスト教と云う宗教とはの項参照〕
 
 以上、戦争を正当化するに、今までは神の名を騙(かた)ったような理由付けであったが、 これからは、神=人、したがって神たる人は、自己の行為に関する計画実行成果などなど全てに責任があることになる。 責任を掏り替えることは赦されない。
 勿論、現聖書下であっても、神に責任を転嫁することは赦されることではない。
Of course, to impute the responsibility to the god is not to be done [**] even if it is the present Bible under.
 
 神=人においては、共存共栄を旨とすべきこと論をまたない。

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