[詳細探訪]
 
〈鹿角市先人顕彰館〉
 私達の郷土「かづの」にゆかりの深い先人に関する資料を収集、保存し、事蹟の調査
研究と公開展示をするため、昭和63年に開館しました。
 世界的な東洋史家といわれる「内藤湖南」、十和田湖開発に尽力した「和井内貞行」
両氏をメインに展示しています。
 さらに政治、産業、教育、文化等の分野で活躍された先人の業績についても顕彰・紹介
しています。
 
 
〈調査展示済み先人一覧〉H14.06.01         ※五十音順
 
浅井 小魚(1875〜1947)大湯  俳人・大湯環状列石発見者
浅利 佐助(1844〜1920)花輪  醤油醸造業の基礎を築いた
阿部 恭助(1886〜1928)尾去沢 鉱山日誌「阿津免草」の著者
阿部 貞一(1895〜1950)八幡平 農村電化と観光事業の先覚者
阿部 藤助(1886〜1928)八幡平 郷土の興隆に生涯を捧げた
 
阿部 六郎(1893〜1974)花輪  郷土文化の向上に貢献
石田 収蔵(1879〜1940)花輪  北方民俗研究の草分け
伊藤 良三(1883〜1964)毛馬内 教育と町政に尽くす
内田 武志(1909〜1980)八幡平 民俗学と菅江真澄の研究
大里 健治(1898〜1978)毛馬内 音楽、郷土芸能の振興に寄与
 
大里 周蔵(1884〜1965)花輪  町政に尽力した文化医師
大里武八郎(1872〜1972)花輪  名著「鹿角方言考」の著者
小田島樹人(1885〜1959)花輪  気品に飛んだ作曲家
小田島由義(1845〜1920)花輪  郡長として殖産興業に尽くした
川村 竹治(1871〜1955)花輪  育英会を創立した司法大臣
 
栗山文次郎(1888〜1965)花輪  かづの古代茜、紫根染の大家
黒沢 隆朝(1895〜1987)花輪  音楽教育と音楽起源の研究
児玉 高慶(1888〜1929)花輪  武道を奨励し青少年を指導
坂田  祐(1878〜1969)大湯  関東学院設立と教育に献身
柴田 春光(1901〜1935)毛馬内 才能をうたわれた若き画家
 
杉山万喜蔵(1907〜1957)尾去沢 地域医療に貢献
諏訪 冨多(1883〜1981)大湯  地域産業文化の発展に貢献
瀬川 清子(1895〜1984)毛馬内 女性民俗学の大家
関直右衛門(1873〜1943)八幡平 鹿角の観光に新時代を築いた
高杉重右衛門(1889〜1964)尾去沢 地方行政農事に寄与・歌人
 
高橋 克三(1888〜1984)毛馬内 湖南研究と地域先人の顕彰に尽力
立山弟四郎(1867〜1937)毛馬内 郷土の産業と教育に貢献
立山 林平(1888〜1918)毛馬内 将来を嘱望された天災数学者
田中 北嶺(1838〜1918)毛馬内 「戊辰戦役図絵」を描く
種市 霊山(1882〜1945)毛馬内 スケールの大きい気骨の書家
 
田村 徳治(1886〜1958)花輪  日本行政学の創設者
豊口鋭太郎(1873〜1952)毛馬内 秋田県の教育振興に貢献
宮城佐次郎(1881〜1951)花輪  教育と地方自治に貢献
渡部 繁雄(1886〜1976)八幡平 地域農業の近代化を促進
 
 
[史跡案内]
@和井内翁生誕地(現在地)
 和井内家は代々、毛馬内領主桜庭家の筆頭家老として続いた家で、貞行は第39代目に
当たり、ここで生まれた。
 現在、その跡地に鹿角市先人顕彰館が建っている。
 
A泉沢履斎リサイ生誕地(本名:泉沢牧太マキタ)(徒歩0分)
 安永7年(1778)生。若くして学を志し、江戸に出て朝川善庵の学僕となる。その後、
塾頭まで昇格し善庵の推薦により文化13年(1817)水戸浦に漂着した清国人邱有斌を長
崎へ護送、その能力を高く評価した幕府は履斎を伊勢亀山藩儒とした。また、南部藩世
子信候ノブモトに御前講釈もした。安政2年(1856)7月、江戸の大地震で没。77才。
 ※朝川善庵ゼンアン(1781〜1849)
  江戸生。江戸後期折衷学派の儒者。山本北山について儒学を受け、長崎で見聞を広
  めた。
  折衷学派
  当時の幕府の官学である朱子学に反対した新しい学問で、漢・唐・宋・明の学者の説を
  取捨選択したもので、考証学に詳しく博学の人が多い。
  山本北山ホクザン(1752〜1812)
  江戸生。江戸後期折衷学派の儒者。「寛政五鬼」(山本北山・市川鶴鳴・豊島豊洲・塚
  田大峰・亀田鵬斎)の一人。門下生に朝川善庵・泉沢履斎・伊藤為憲らがいる。
 ※相馬大作潜伏の地
  文政5年(1823)南部藩士の相馬大作は大館矢立峠にて津軽公暗殺を企てるが失敗
  し、毛馬内の泉沢履斎宅へ約1ケ月潜伏する。その後江戸に逃れるが捕らえられ斬
  首刑となる。24才。
 
B伊藤為憲イケン生誕地(本名:伊藤宗兵衛)(徒歩0分)
 明和4年(1767)生。30才で出奔し、文政10年(1827)60才のとき江戸で「鹿角縁起
」書く。この縁起には鹿角の名勝、旧跡、山川の形勢をもらさず、また人物の来歴など
に及び、郷土史の先駆をなすもの。大町桂月がこの書をよんで「まれに見る多識の人」
だと激賞した名著。没年不詳。
 為憲宅は、宝暦元年(1751)建築の鹿角で最も古い武家屋敷。
 
C伊藤良三リョウゾウ生誕地(為憲の子孫)
 明治16年(1883)生。教師。昭和9年毛馬内町長に当選。昭和30年5月毛馬内、錦木、
山根を合併して初代十和田町長となる。ついで31年11月十和田町、大湯町が合併してあ
らたに初代十和田町長となる。昭和39年4月10日没。82才。著書に「郷土人物読本」「
毛馬内郷土史稿」等がある。
 
D内藤湖南生誕地(本名:内藤虎次郎)(徒歩3分)
 慶応2年7月18日(届出は5月27日)毛馬内砂場スナッパに生まれる。短い期間であった
が幼年時代をここで過ごした。
 
E私立立山文庫跡(立山弟四郎テイシロウ)(徒歩3分)
 慶応3年(1862)生。生涯を通して収拾した蔵書約1万巻を収めた蔵跡。弟四郎の死
後、遺言により蔵書を毛馬内町に寄付、立山文庫継承十和田図書館の基礎となった。昭
和12年7月30日没。
 
F育焉亭イクエンテイ跡(徒歩9分)
 湖南の父十湾が晩年、筋向の奈良正太郎所有の茶室「老梅庵」を併設した塾を「育焉
亭」と名付け、そこで塾生の教育に当たった。
 
G蒼龍窟ソウリュウクツ(徒歩9分)
 湖南の旧宅。明治13年湖南15才の時、父十湾が建てた。現在は改築されているが当時
の面影を残す。今も残る門の「蒼龍窟」は吉田晩嫁書、十湾自らの刻である。
 ※吉田晩嫁バンカ(1830〜1907)
  長崎生。書家。明治維新の際、軍人として活躍するが意に適せず書家となる。靖国
  陣の石標、陸軍省、警視庁その他の表札等を書いた。
 
H柏崎新城本丸跡(徒歩9分)
 慶長2年(1597)旧毛馬内中学校跡の丘陵にあった当摩館トウマダテを柏崎に移転する事
が決まり、南部藩主利直直々の縄張りでもってこの地に新城が築かれた。完成は10年後
の慶長12年(1607)。その後、武田毛馬内、桜庭氏と城代の交替はあったものの、秋田、
津軽に境を接する要衝の地として多くの武士団が配置されていた。
 
I大湯環状列石(ストーンサークル)
 国指定特別史跡、昭和31年3月31日指定。面積16,200uの縄文時代後期約4000年前の
謎の石群。
 
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