[詳細探訪]
 
                参考:鹿角市先人顕彰館発行「和井内貞行の生涯」
 
〈和井内貞行の生涯〉
安政5 1858 2月15日鹿角郡毛馬内村柏崎に生まれる。幼名は吉弥。
慶応2 1866 9歳 南部藩の儒学者泉澤恭助の塾に入門。
明治7 1874 17歳 毛馬内学校教員手伝いを命ぜられる。
  11 1878 21歳 鎌田倉吉氏長女カツ(17歳)と結婚。
  14 1881 24歳 工務省小坂鉱山寮の吏員となり、十輪田鉱山の事務所に詰め鉱夫
          の監督を勤める。
         ※十輪田鉱山は銀を生産し、2千人余りの人が働き、新式の製錬施
          設があり、赤レンガの煙突からはいつも黒煙が吐き出されていた。
  15 1882 25歳 長男貞時十和田湖畔で生まれる。
 
  17 1884 27歳 十和田湖に養魚を決心、はじめて鯉の稚魚600尾を放流する。
  18 1885 28歳 大川岱の十和田小学校開校記念日に、鹿角郡長小田島由義より鯉
          の稚魚1,400尾の寄贈を受け放流する。
  19 1886 29歳 はじめて岩魚イワナと金魚を放流する。
  23 1890 33歳 湖岸の各所に尺余りの鯉が見られる。
          湖水使用の願いを秋田・青森両県知事に出す。
          農商務省水産技師の松原新之助がはじめて来湖する。
  24 1891 34歳 青森県知事から湖水使用の許可を受ける。
  25 1892 35歳 はじめて鮒1,000尾を放流する。
  26 1893 36歳 青森・秋田両県知事から連盟で湖水の使用を許される。
          十輪田鉱山の生産が減少し鉱脈が尽き休山となり、翌年小坂鉱山
          勤務となる。
  28 1895 38歳 密漁者を取り締まるために湖畔に養魚取締の請願巡査を置く。
 
  29 1896 39歳 はじめて鯉を正式に捕獲する。
  30 1897 40歳 小坂鉱山退社、養魚に専念し鯉を小坂や毛馬内などの市場に出荷
          する。
          神戸で開催の第2回水産博覧会に大鯉2尾出品する。
          銀山の湖畔に旅館「観湖楼」を建てる。
          青森県・秋田県の新聞に十和田湖景勝の記事をのせ、観光宣伝に務
          める。
          魚の繁殖法と缶詰製造法を研究するために、東京・関西方面へ出張
          する
          銀山の小学校を買い取り、人工孵化場を作る。
  31 1898 41歳 鱒の人工孵化法と養殖法研究のために、長男貞時を日光養魚場へ
          派遣。
          鯉漁次第に減少する。
  32 1899 42歳 鯉漁減少し、漁獲量前年の三分の一となり計画が崩れる。
          貞時を農商務省水産講習所に聴講生として派遣する。
          鱒の養殖設備に着手する。
 
  33 1900 43歳 青森県水産試験場から買い入れた川鱒を、貞良親子は事業の浮沈
          をかけて孵化し、5,000尾を放流する。
          日光養魚場から日光マスの卵を買い求め、それを孵化させる。
  34 1901 44歳 湖畔で孵化した日光マスの稚魚35,000尾を放流する。
          松原新之助氏三度目の来湖、その示唆で銚子大滝に魚道を作る。
          山本由方水産技師再度来湖。
          次男貞實を青森県立水産試験場に勉学させる。
  35 1902 45歳 日光マス、魚道共に失敗する。
         ※日光マスは、魚の野性ともいうべき回帰性が薄れ、むしろ散在性
          の魚になっていたことにより、十和田湖での養魚を志して18年、
          貞行の夢はまたしても砕かれた。
 
         ※青森県水産試験場から、北海道支笏湖で養殖している回帰性のあ
          るマス(カバチェッポ)の話を聞く。
          貞行は妻カツと相談し、懐中時計や衣類、家具等を質の入れ、カ
          ツは嫁入りの時の着物、鼈甲ベッコウの櫛クシなどを売り払い、必死に
          資金を準備し、カバチェッポの卵3万粒を購入して孵化を行う。
  36 1903 46歳 カバチェッポの稚魚約3万粒を放流する。
          「和井内マス」と命名する。
         ※カバチェッポは回帰するのは3年目の秋である。無理に無理を重
          ねた和井内家の家計は貧しさのどん底にあった。和井内家の家族
          は、三度の食事を二度に減らす程に暮らしは貧しかったが、三年
          待てばカバチェッポが帰ってくるという希望があった。
 
  37 1904 47歳 農商務省より十和田湖の専用漁業権が、十年間許可される。
  38 1905 48歳 日露戦争の勝利を記念して新たに生出に孵化場の建築を始める。
          秋、カバチェッポ(ヒメマス)が群れをなして帰ってきた。
          貞行は、毛馬内の家に夜通し駆け付けて、老父母に報告し、翌朝
          湖畔でカバチェッポを見せる。
          明治17年、貞行が27歳で志した養魚が、22年の歳月と、1万数百
          円の資金を投じてついに成功した。
          毎日、1,000尾以上もの漁獲に成功する。和井内マスから卵を取
          り、人工孵化に着手する。
          はじめて鮭50,000尾、飼料としてエビ1石を放流する。
 
         ※明治38年の東北地方の凶作は特に厳しく、十和田湖畔のような高
          地では、米はおろか、ソバ、ヒエ、アワさえもまったく育たなか
          った。
          飢饉に苦しむ湖畔住民の救済に、莫大な借金返済にもかかわらず、
          カツのすすめもあり、漁獲の全てを当てた。
          この後大正2年の凶作の時にも、カバチェッポを自由に獲ること
          を認め、湖畔の人々を救済している。
 
  39 1906 49歳 各地の湖沼から和井内マスの卵の注文がくる。
          英文入りの十和田湖の宣伝ビラ1万枚を全国へ配付し、初めて十
          和田湖の絵葉書を発行する。
          湖畔で孵化したマスの稚魚120万尾を貞時の手で放流する。そのマ
          スの標本(アルコール漬瓶詰17個)に説明をつけて、毛馬内小学
          校に寄贈する。
          新孵化場が落成する。
          父治郎右衛門貞明が亡くなる。
  40 1907 50歳 「緑綬褒章」を授けられる。
          妻カツが湖畔で病のため亡くなる(享年46歳)。
          「勝漁ショウリョウ神社」に祀られる。
          マスの養殖標本と養殖方法の解説を東京勧業博覧会に出品し、一
          等賞を受ける。
 
  41 1908 51歳 東宮殿下(大正天皇)東北地方御巡啓の際、秋田市の旅館でお言
          葉を賜る。
          十和田湖の模型をお見せし、湖産の生きた鯉2尾を差し上げる。
          小坂鉄道が開通して遊覧客が増加する。
          発荷に旅館を新築して、末弟治郎を置き「十湾閣」と命名する。
          大町桂月はじめて来遊し、雑誌「太陽」に紀行文を掲載する。
  42 1909 52歳 第2回のカバチェッポ放流のため、弟の治郎を北海道の派遣し、
          15万粒の卵を買い入れる。
          十和田湖遊覧案内所及びマスの売りさばき取次所を小坂町に設け
          る。
          湖沼学の田中阿歌麿に湖の科学調査を依頼、東京の新聞・雑誌記者
          団を招き、十和田湖の景勝を紹介する。
          貞時、サキ子と結婚。
  43 1910 53歳 後妻ソメを毛馬内浅沼家より迎える。
  44 1911 54歳 生出孵化場隣に旅館の新築を始め、銀山から生出に住居を移す。
          三男貞三を秋田測候所に派遣勉学させ、「十和田湖気象観測所」
          を設置する。
          電話が開通し、湖上には2艘の遊覧船が就航した。
 
大正2 1913 56歳 母エツが湖畔で亡くなる。
          柳田国男調査に来湖する。
          什器製造を湖畔住民の副業にするため、日光から木地職人を招く。
  3 1914 57歳 大日本水産会から功績を表彰される。
          大湯街道ができ、発荷峠まで車が通るようになる。
          湖上に石油発動機船の「南祖丸」が初就航する。
  4 1915 58歳 実業之日本社の「日本新十勝景」に十和田湖が二位で当選する。
  5 1916 59歳 建築中の旅館が落成し、「和井内十和田ホテル」と命名する。
          中央日本新聞社募集の避暑三景の第一位に十和田湖が当選し一躍
          有名になる。
 
  6 1917 60歳 孵化場を改築して東洋一となる。
          8月21日発荷「十湾閣」を利用して、治郎「大湯郵便局十和田湖
          出張所」を開局する。
 
  8 1919 62歳 養魚事業を長男貞時にゆずり、毛馬内の本邸で起居。マスの燻製
          製造販売の東北水産会社を創設し、生出に工場を置く。
  9 1920 63歳 秋田鉄道が毛馬内駅(現十和田南駅)まで開通する。
          宮内省に石原次官を訪問し、十和田湖畔にご用邸設置を請願する。
          鹿角乗合自動車組合設立、毛馬内・発荷峠間運行する。
          十和田遊覧自動車組合設立、三本木より湖畔子の口まで運行する。
  10 1921 64歳 内務省に十和田湖の国立公園候補地編入を陳情する。
          修養団鹿角郡支部長に推され、夏期その中堅青年講習会場として
          孵化場を提供する。
          五戸鉄道及び来満鉄道の建設請願をし、帝国議会で採択される。
          和井内十和田ホテルに秩父宮・高松宮両殿下を迎える。
 
  11 1922 65歳 3月半ば北海道増毛方面まで至り、帰った後、4月初め感冒で床
          に就き、5月16日に毛馬内柏崎の本邸で亡くなる。同日「正七位
          」に叙せられる。
          21日毛馬内仁叟寺において葬儀が行われる。
          26日湖畔大川岱墓地に妻カツと分骨埋葬。霊位は勝漁神社に合祀
          される。
昭和2 1927    発荷峠より生出まで、県道新たに開通する。
          「日本新八景」湖沼の部の第一位に十和田湖が推薦される。
  7 1932    孵化場隣地に冷凍工場を新設する。
  8 1933    勝漁神社を「和井内神社」と改称。
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