尾去沢小学校校歌の周辺・余話(2) 二十分程したら横田先生から電話がきた。そういう話しは聞いたこともないし、 それらしき物も見たこともない。また何度も転勤しているので、古い物は何にも残 っていない、ということだった、と。わかりました、とお礼をいって、これで尾小 の校歌にまつわる話しは終りとなるわけですが、一寸気になったというか、よけい なお世話ともなるわけですが、花輪高校の五十周年記念誌によれば、花輪女学校の 校歌の制定は昭和五年となっているが、白秋先生が校歌を送ってきたときに、「昭 和四年一月廿四日完成」と書いてある、ということなので、単なる誤記なのだろう か。 気になるといえばもう一つ、百周年の座談会で、蟹沢の黒沢さんが元山の小学校 に大正十年に校歌があった、といっておりますが、私達が田郡の学校に入った頃 (昭和四年入学)は、学校の物置きになっている押入れに、紺のラシャに赤い線の 入ったズボンが押し込められていて、音楽隊があったとか聞いたような記憶がボン ヤリとあるが、校歌は歌った記憶がない。たゞこの座談会のときに高田(重雄)さ んが、田郡の元山でも楽隊があって、ジャバラの服着て、太鼓だのラッパもあった すな、といわれたのを聞いて、あゝあの服かと思いました。 元山の校歌と尾小の校歌とは関係ないわけですが、私も山カゲの出なので、元山 とか田郡とかいわれると、つい気になる。ということで、高田さんのいわれた楽隊 と黒沢さんのいわれた校歌については、何にかないだろうかと考えたら、昭和四十 七年に閉校した三ツ矢沢の学校史は、たしか元山時代からのことを書いていた、 と思い出して開いてみたら、「大正時代の娯楽」という項に、次のような記事があ った。 「青年会の中に、音楽隊が設けられていた。部といっても特別の規程があったわ けではなく、時々夜に学校に集合して楽器奏法練習を行うことであった。これによ って野卑低格な技芸にはしり勝ちな青年達を守ろうとするものであった。一通りの 楽器は勿論のこと、服装も備って音楽隊の趣きをなし、当時の軍人の送迎、運動会 祝賀会には必ず出て、行事を盛んにしてくれた。」とあるので、この楽隊はいつ頃 なであったかわからないが、物置きのラシャのズボンもこれで納得となった。 続いて「盛大に挙行された祝賀会」という記事があり、大正十年六月一日恩師川 口校長の奉職三十年の大祝賀会をやった、ということで、その式次第の二番目に 「学校長学校記念日について話す」、次に「一同学校記念日の歌を唱う」とある。 学校記念日とは、いつのことをいったろう。次に「学校長校旗樹立式に移る旨を告 げ、校旗調製の由来について話す、児童代表に授与す」とあり、どんな校旗だった ろうか、見たことがあるような、ないような記憶があいまいになってしまったが (三ツ矢沢学校史に写真が載っている)、そして五番目に「一同元山小学校校歌を 唱う」とある。黒沢さんのいったのは、これだな、と思った。 一、白雲なびく山の上 基を定めて十余年 共同和哀の鐘の音は 高く響きて堂々と 勇み進むは日の本の 唯一筋の広き道 二、窓に入りては知を磨き 庭に出でしは身をきたい 努め力みて怠るな 直き心を本として 朝日に匂ふ桜花 色香添えんは誰が為(住?)ぞ 三、日本心のかがやける 允文允武の旗の色 仰ぎて進め一徹に 如何なる風も吹かば吹け いかでか折れん撓むべき 是ぞ我等の生命なり 参照: 「元山小学校校歌」 (お願い:リンク先から戻るときは、ブラウザの「戻る」 ボタンをクリックして下さい。) この校歌はいつできたかわからないが、大正十年の祝賀会のときに、「基を定め て十余年」と歌っているということは、そのときから十余年前を考えれば、元山か ら田郡に校舎を新築移転して開校式を挙げたのは、明治四十二年六月一日というこ となので、大正十年の祝賀会のときは、校舎ができて十二年目、となればその頃こ の校歌ができたと考えられる。この校歌はどれだけの期間歌われたのだろうか。元 山の小学校が尾去沢の分校になったのは、大正十三年といわれているから、分校に なってからは歌われなくなったのかもしれない。 |