下タ沢会によせて(覚書)

附3 尾去沢小学校校歌の周辺・余話

 尾去沢小学校校歌の周辺・余話(2)(続き)
 
 ともあれ激動の昭和とよくいわれるけれども、私達の子供の頃を振り返ってみる と、昭和六年には満洲事変が起り、上海に飛火し七年二月、肉弾三勇士という、今 にしてみれば作られたという軍国美談に感激し、同年三月には満州国ができ、翌八 年二月、この満洲国問題で日本が国際連盟を脱退し、九年にはその満洲国が帝国と 名を変え、また五・一五事件(昭・八年)、二・二六事件(昭・十一年)等に代表され る血なまぐさい事件が相次ぎ、ついに昭和十二年七月、北支事変が起き、支那 事変、大東亜戦争へと拡大されて行く、そうした軍国主義一辺倒につき進んで行く はざまの中に、私たちの校歌は誕生する。
 
 今思えばこの校歌は、軍国主義の旗の下、八紘一宇なる理想をかゝげて進んだ戦 時中の、世を圧する軍歌にもかき消されることなく、また戦後の疲弊困憊、すべて の価値観が逆転した世相の中にも迷うことなく、一陣のさわやかな風が吹きぬける ように、この昭和の時代を歌い継がれてきた。
 
 思えば矢島校長先生が、花輪女学校の校歌をお願いに行ったとき、白秋先生に、 従来の校歌はあまりに校歌臭かった。私の学窓には快活で朝な夕なに少女達が好ん で口吟むようなのが欲しい、学校タイプのあるのは嫌いだし、教員くさい先生は嫌 いだ、と教育の理想を申し上げたといっている。今この言葉をかみしめめながら、 元山小学校の校歌(外の学校のは知らないので)と、この校歌をくらべてみるとき、 その良し悪しは別として、その違いがよくわかると思う。
 
 今の子供達は何んの疑いもなく、自分達の校歌として素直に歌っているだろうが、 私達戦中戦後を生きてきた者にとっては、この校歌の歌われてきた時代背景という か、その歴史を思うとき、いかなる時代の風潮にもおかされ、まどわされることな く歌いつがれてきた、この校歌の重みをしみじみと感じる。それだけにこの校歌を 単に有名な先生の作詩作曲であったということだけではなく、その歌われてきた 時代への認識を深めながら、私たちも誇りをもって歌っていきたい。
 
 人類は、たゞ生活の利便性を求め、営利を求めて自分達のつくり出した物資によ って、やがて自分達が滅んで行くのだろうか。かけがえのない地球とよくいわれる けれども、その地球もやがて人間の欲望によっ汚染され滅びて行くのだろうか。
 このかけがえのない地球を守るには、どうしたらよいかといわれても、私達には 難しいことはよくわからない。けれども、美しい鹿角の自然をたゝえ、ふる里に誇 りを持ち、共に学び、励み、磨き合っていこうというこの校歌を、しっかり心にき ざんで、子供達には巣立って行ってほしいものと思う。この校歌の底に流れている 自然を愛しふる里を思う心が、このかけがえのない地球を守っていこうという心に もつながってゆくのではないだろうか。といえば無理なこじつけと嗤われるだろう が。

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