下タ沢会によせて(覚書)

附3 尾去沢小学校校歌の周辺・余話

 尾去沢小学校校歌の周辺・余話(1)(続き)
 
 第二回目のときも校歌にふれて、
 司会:ところで、校歌は先生のいた頃あったんですか。
 石井(純一郎先生):いやなかったです。その後ですよ。これによると、昭和九 年の六十周年のときに校歌制定とありますね。女学校の校歌が北原白秋で、なんと かなねべが、ということで連絡して。「山なぞえ」というのは、女学校の校歌にも 使ってある。そして作曲を頼んだ。山田耕筰に。ちょっとそんじょそこらにない校 歌だ。
 司会:どうしてそのとき、校歌作るべ、となったんですか?、明治時代は校歌 はねがったのですか?
 杉山(校長先生):「和銅の昔」という歌はあった。未公認の校歌であったがす な。
 石井:尾去沢と花輪は、相対する両雄であったわけですよ。片方にあって、尾去 沢にないというので、どうせなら天下の大先生にお願いした方がいゝとなって、頼 むごとになったようです。
 黒沢(与次郎さん):元山には校歌があったすな。大正十年にね。元山尋常小学 校校歌が。
 
 さて、杉山先生が座談会の中で「和銅の昔」という歌があった、といっておられ ますが、川上栄太郎先生が「わが母校」という思い出の中で、
 ”黄金花咲くみちのくの
和銅の昔に名を得たる
歴史に古き尾去沢
名うたわれし尾去沢”
 
 参照: 「元山小学校校歌」
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 石井哲五郎(鉄五郎?)先生の作詩ときかされました。運動会に、又他校との試 合に母校の応援歌としてよく歌ったものです。と書いておりますが、この歌に二番、 三番とあったろうと思いますが、もう知っている人はいないのではないだろうか。 また杉山先生が「和銅の昔」という歌があった、といっておられるのと関連がある のだろうか。
 川上先生は、この応援歌をよく歌ったものだといっておられますが、私達の歌っ たのは、「五の宮高くそびえ立つ」というのと、「裏の畑で烏鳴く」というので、 この歌は歌ったおぼえがない。といっても私は、本校は高等科の二年間だけなので、 本校にいた同級生は歌っていたかもしれない。

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