尾去沢小学校校歌の周辺・余話(1)(続き) 尾小百周年記念誌の中で校歌にふれているのは、この川上先生と私達の一級上の 赤坂重吉さんの二人だけでした。 川上先生は先にも書きました「わが母校」という思い出の中で、和銅の昔という 歌詞に続いて、いろいろ思い出を書かれておりますが、校歌については次のように 書いております。 「忘れもしませんが昭和九年、創立六十周年記念事業として、母校の校歌が制定 されました。作詩は当代随一の作詞家北原白秋氏、作曲はこれまた有名な山田耕筰 氏の曲です。当時花輪女学校の校歌とともに、日本校歌名曲の中に数えられる程立 派なものです。創立祝賀学芸会で父兄生徒の前で、全職員でこの校歌の歌い初めし ました。今は秋田におられる鎌田貞治先生の指導であったと思います。あのなつか しい”山なぞえ”、あれから四十年……」 赤坂重吉さんは「朝礼とわが母校」と題して、次のように書いております。 「毎週月曜日朝、全校生徒が講堂に集合して、校長先生の訓話を聞くならわしで あった。尋常一年から高等二年まで一学年三組としても、およそ一、一〇〇名は超 えるであろう。級長が先導して各学年毎に整然と講堂に集ってくる。 朝礼が終って最後に鎌田先生の指揮で全員で、 ”秀麗無比なる鳥海山よ、狂瀾吼え立つ男鹿半島よ” と声高らかにこの歌を合唱したものである。終って退場して行くその列は、山沿い に長い校舎の廊下を宛延と続くのである。 たしか昭和九年頃だったと思う。秋の全校学芸会の予行練習の幕間に、校長先生 から新しい校歌制定の主旨と、有名に先生による作詩作曲である旨の経過と解説が あった後、 ”山なぞえ 空は青し 尾去沢よき学舎” と、先生全員による合唱で、全校生徒に発表された。校長先生は最初から最後まで、 じっと真剣に聞いておられた。勿論私達生徒も一言一句洩らすまいと聞いていたの である。 合唱が終って校長先生は、感慨深げに、「あゝいゝ歌だ」と繰り返し口にされ、 大変嬉しそうに喜んでおられた。その光景は今でも頭の中に残っている」、と。 その後は、前の県民歌にかわって、この校歌を合唱するようになった。というこ とですが、私には何にを歌ったかさっぱり記憶がないが、長い廊下を講堂に集って 行った、六十年以上も前の朝礼のことがなつかしく思いだされる。今の小中学校で は、どんな風にしているのだろうか。 石井先生は校歌の話しの中で、”山なぞえ”は女学校にも使っている、といわ れておりますが、花輪高校の五十周年記念誌で見る限りでは、この言葉はないので、 何にかの記憶違いだったろうか。 その花輪高校の記念誌の編集後記にこんな記事があった。 「特記すべきことは、矢島氏宅から貴重な山田耕筰直筆のお手紙をお送りいたゞ いたことである。それにつけても耕筰直筆の「少女われら」の楽譜の行く方がわか らないことは残念である。」と。 そうだ、ご遺族がいるんだ、と思った。私は、当時の校長先生はとっくに亡くな られたんだろうとあきらめていたが、もしかしたら、そのご遺族の方が何か持って おられるかもしれない、とは思ったものゝ、そのご遺族となれば皆目見当がつかな い。 ところが、尾去沢にはもう一人沢口という校長先生がおって(昭和二十・二十一 年)、記念誌の回想の中で小坂出身といっておられたので、もしかしたら、この校 長先生も小坂なのかもしれない、と思って電話帳を開いてみたら、沢口というのは 小坂に四十一軒あった。一軒一軒電話するのも大変だし、誰か知っている人がいな いかと考えてみたら、民生委員の佐藤総務さんを思い出した。早速電話をしたら、 調べてみましょう、ということであった。 二〜三日して電話がきた。先生のことは、先生に聞いた方が早いだろうと思って、 横田先生(現小坂町教育長?)に聞いてみたら、すぐわかった。沢口正三先生には 子供さんが無く、養子をもらわれて、その養子の子供さんが、横田先生の教え子で、 同和に勤めて、今は船橋市の方にいるが、何度も転勤しているので何んにもないか もしれない。ということだった、と。 横田先生なら尾中の教頭先生をしておられたので、私もよく知っているので、早 速電話した。ということで、とお話して電話番号などお聞きし、見ず知らずの人間 が突然電話しても失礼だと思いますので、先生の方からも一言お言葉添えをしてお いていたゞきたいとお願いした。 |