下タ沢会によせて(覚書)

附3 尾去沢小学校校歌の周辺・余話

 尾去沢小学校校歌の周辺・余話(1)
中央通り 相馬茂夫

 私はよく、ふる里、ふる里というので、またか、とあきられていると思いますが、 これも私の戦争の後遺症かもしれないナ、と思ったりしております。
 
 私は、終戦後シベリアに行って三年くらしてきました。その三年間、朝から晩ま で仲間とくり返しシャベっていた言葉はたった二つ、「腹ヘッタ」と「エサエキテ」。 これは、何も私だけでなく、期間の長い短いはあってもシベリアに行った人達の共 通の思いでもあったろうと思います。
 当時私達は捕虜という名のもとに、常にソ連の監視下におかれ、自分で食糧を 確保することも、ましてや帰ることもできない、厳しいノルマのもとに、やっと生 命をつないで生きてきた。それだけに、ふる里への思いがよけい強かったのだろう と思っております。
 
 私の生れたところは下タ沢。戸口を出れば、向いの山にハナッパシがつかえるよ うな狭い沢ツボ。そこには何んにもない、が、親弟妹がおり、親類がおり、幼な友 達がいる。近代文明とは程遠い谷間ではあっても、私にとっては何物にもかえがた い、帰って来たいふる里であった。
 
 それはそれとして、今更めて記念誌に校歌についてどんな話がのっているだろう と思って開いてみると、第一回の「思い出を語る」座談会の時に、関フミ先生が、 私達の時は校歌はなかったが、校歌がわりの歌はあった、と歌っていたゞいたが、 どんな節まわしであったか思い出せない。
 その関先生が、「卒業の回想」の中で、いつきでも忘れられない歌として、 石井鉄五郎先生作詩、石田先生(ミイ先生のお父さん)作曲として、
一、
同じ園生になでしこの 教えの露にうるおいて
西東さえ知らぬ身の 文読む窓に睦びつゝ
重ぬる月日諸共に 只八年を過しけり
二、
春は花咲く学校園 秋は紅葉の坊主山
学びの技の暇には 手を取り合いて遊びつゝ
重ぬる月日諸共に 只八年を過しけり
 
 参照: 「尾去沢小学校校歌」
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 この歌を歌って、八か年の学校生活の名残りを惜しんだことが、昨日のように思 われる、と書いておられますが、この歌は、いつ頃からいつ頃まで歌われていたの だろうか、学校に二人の先生の在職年代を調べていたゞければ、おゝよその見当は つくと思いますが、関先生は大正二年の卒業となっておりますので、いづれ明治か ら大正にかけて歌われていたと思います。

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