尾去沢小学校校歌の周辺(2)(続き) ということで、話ししは元にもどりますが、尾去沢中学校の校歌の下じきになっ たという花輪高女の校歌ですが、私の記憶の遠いところに、尾小の校歌と同じ作詩 作曲者であったという思いが、かすかにあるが、いつどこでとなるとさっぱり思い 出せない。もしかしたらそれは昭和二十五年〜六年頃鉱山事務所で、花輪高女出の 人に「あかね」とかいう同窓会誌かを見せてもらったことがあったので、それに載 っていたのかもしれない、などと考えているうちに、花輪高校の創立五十周年記念 誌のあることを思い出して出してみたら、ちゃんと載っていた。 参照: 「花輪高等女学校校歌」 − 愛の花輪 − (昭和五年制定) (お願い:リンク先から戻るときは、ブラウザの「戻る」 ボタンをクリックして下さい。) この花輪高女の校歌も、どのような経緯を経てこの二人の先生にお願いしたのか わからないが、たゞこの校歌ができて四年後(昭和九年)に尾去沢小学校の校歌が できている。この花輪高女の線に尾去沢小学校がつながっているのかもしれないと 思った。 その尾去沢小学校の校歌が制定されたとき、私は田郡分校の六年だった。その頃 分校には、特に音楽の先生もいなかったと思うので、どんな風にして教えられたか 全然記憶にない(誰か知っているかもしれないが)。そのくせ妙なことに、流行歌 を歌って怒られたことをおぼえている。当時「島の娘」というのがはやっていた (”十九の春”というのもあった。昭和八年に出た歌だから、五年生のときかも しれない)。その頃ラジオはどの程度普及していたのか(今のNHKの放送開始は大正 十四年三月)、もちろんテレビなどあるはずもなく、たゞ蓄音機がはやっていた。 同級生にその蓄音機のある家があって、彼がおぼえてきた。休み時間に教室の隅で 車座になって頭を突き合せて「ハーシマーデー」とやっていたら、いつの間に来た のか川口敬助先生に「学校でそんな歌を歌っていかん」と怒られた。校歌のできた 昭和九年には「国境の町」「急げ幌馬車」「赤城の子守唄」など出て、大いに歌わ れた。我々年代にとっては、忘れられないなつかしい歌である。 話しはまた横道にそれてしまいましたが、翌十年高等科になって本校にきたが、 朝礼のときなどに歌わされたと思うが、それもさっぱり記憶がない。気がついたら、 いっぱし物をおぼえたような面をして作詩、作曲者の自慢をしていた。 川上先生の所に行ったとき、二〜三人古い先生のことも聞いてきたので、電話し てみたが、連絡がつかなかった。音楽の鎌田先生は、土崎におられるとのことでし たので、それからしばらくして、今度の日曜日にお伺いしたい、と電話をしたら、 丁度その日は外にでかける用事があっていないということだったので、ではそのう ちにまた、といゝましたが、そのうちにがとうとう十年余も過ぎてしまい、その間 に先生も亡くなられてしまった。しまった、と思ったけれども、どうにもならない。 私が中学校の校歌のところで、自責の念をこめて、といったのは、このことがあっ たからである。 尾小の百二十五年会をやった後、二十五年も一区切り、こゝらでこの問題に区切 りをつけないと、いつ私の人生も一区切りになるかもわからないと。もう今更おそ いけれども、もしかしたら、先生のところで詩でも曲でも何にか二人の先生の書い たものを持っておられるかもしれないと思ったりしていましたが、亡くなられた今 は、何んもなくてもいゝから先生の仏壇に手を合せて、この問題に終止譜を打とう と思った。が、川上先生から聞いた住所や電話番号を書いたノートをどこへやった やら、みつからない(それで、尾中の校歌の作詩作曲者のこともわからなくなっ た)。 さてこまった、と思ったが、私達の小学校の同級生の中津山(石井)嘉子さんの 姉さんが鎌田先生の奥さんだ、と聞いたことがあるような気がしたので(私は山か げの生れなので、こちら側の人の人のつながりがさっぱりわからない)、中津山さ んに電話してみることにした。 |