尾去沢小学校校歌の周辺(3) (前回、「中津山さんに電話してみることにした。」、で終っていましたが。) それは、暮もおし詰った十二月の中頃であったと思いますが、こういうことでお 訪ねしたい、と電話をしたら、姉(鎌田先生の奥さん)も八十九才とかで、古いこ とはよくわからないのでは、といっていましたが、今は一番下の息子さんと一緒に 元気でおられるとのこと。鎌田先生が亡くなられて何年くらいになりますか、とき ゝましたら、今年が七回忌だった、と。私がやっと行く気になったときが七回忌と いうのも、これも何にかのご縁と、早速電話をして、仏さんを拝ましていたゞくだ けでも結構ですからとお願いした。道順をきいたりするのには、若い人の方がいゝ と思いましたが、今日はまだ帰っていない、とのことなので、翌日夜また電話をし たら、息子さんの奥さんが出たので、こういうことでとお願いしたら、駅まで迎え に出てくれるとのこと、タクシーで行くからいゝです、といゝましたが、私も尾去 沢です、といわれて、ホッとしたというか、全然会ったこともない人のところを訪 ねて行く、という心の底にあった緊張感みたいなものがとけてゆくというか、とた んに身近な親しい人に感じられて、ご厚意に甘えることにしました。 十二月十九日(日)、土崎に九時五十分頃着く急行よねしろで鎌田先生のお宅に行 ってきました。 鎌田先生の奥さんとお嫁さんと三人で、尾去沢の校歌のこと、花輪高女の校歌の ことなどいろいろお話しして、奥さん(お嫁さん)尾去沢のどこですか、とお訪ね したら、佐藤四郎の娘です、私の市役所に行っている兄も私(相馬)のことをよく 知っているといっていました、という話し、佐藤四郎さんといえば、鉱山の送鉱課 の職員で、在職中はもちろん、閉山後「鉱山を偲ぶ会」をやったときも、いろいろ お力添えをお願いしお世話になっているし、たしか俳句もやっておられた。市役所 に行っている兄さんも私もよく知っているので、人間どこに縁があるかわからない ものだ、とすっかり楽しくなって、つい時間をすごし、また駅まで送っていたゞい て帰ってきました。 その話しの中で、私の母(佐藤四郎さんの奥さん)が、いつ誰からもらったかわ からなくなったが、花輪高女の校歌を二人の先生にお願いに行ったときのことを書 いたコピーを持っている、ということだったので、早速兄さんの義興さんに電話し て、そのコピーを作っていたゞくことにした。 それは「楽しき窓」という大きな見出しで、「校歌の謡はれるまで」として校長 先生が上京して、二人の先生にお願いしたときの様子がくわしく書かれていました。 B5より一寸小さいくらいの版で、六ページにわたってビッシリ書かれているので、 こゝでは書き切れませんが要約しながら書いていきたいと思います。それには、山 田耕筰先生の校歌を贈ってきたときの手紙のコピーもついていました(先生を偲ぶ よすがにもと、縮少して後につけたいと思います。)。 中津山さんに電話したとき、姉(石井トシ先生、純一郎先生の奥さん)が古いこ ともよく知っているし、今年白秋のふる里柳川を訪ねて、とても感激して帰ってき た、といっていた、ということを思い出して、そのコピーの出どころを知っている かもしれないと思って電話をしました。 花輪高女には「あかね」という同窓会誌と「紫根」という生徒会誌があった。ま た矢島校長先生の書かれた「小さい学風」という大分分厚い本がありましたので、 それに載っていたかも、ということでした(どなたか持っておられたら見せていた ゞきたいと思います。)。 花輪高校の創立五十周年のときの座談会の中でも、校歌の話しが出ておりますが、 その中で、 三ケ田(ノリ先生、尾小にも長くおられました):「令女界」という雑誌に全国の 女学校の校歌が載ったことがありますが、一番目に「愛の花輪」が載ったんです。 切田:私達もよく聞かされました。こんな田舎の小さい女学校を、よくこの大先生 お二人で作って下さったものだと。校歌というより名曲ですね。 石井(トシ先生):大抵の人が八分の六拍子というのは珍しいとおっしゃる。校歌 というと、四分の四が多いですものね。すばらしく垢抜けして、上品で、旋律がき れいで……。山田耕筰全集に楽譜が載っていますから、快心の作だったんでしょう。 |