尾去沢小学校校歌の周辺(3)(続き) 「校歌の謡はれるまで」は、次のような文章ではじまる。 「正月二日早朝、降り積った雪を踏んで校長先生は東京に向う汽車に乗った。」 当時花輪線は秋田から来るのが花輪まで、盛岡から来るのが田山までで、全線開 通したのが、昭和六年なので、残っていた先生達がホームまで見送っているので、 秋田まわりで上京したのだろう。 東京に着いた校長先生は、早速世田ケ谷の自宅に白秋先生を訪ねる。先生は心よ く会って下さって、訪問の目的を申し上げ、「校風は……」と訊かれて、持参した 「愛の学窓」の記録一綴をお目にかける。そこから話しがはじまって、着いた三日 から四日、五日、六日と白秋先生を訪ねて、鹿角の自然、人情、風土をいろいろ申 し上げる。 「愛の学窓」は、この目的のために年の暮も厭はず先生達が懸命になって準備し た書類であった。これによって先生同志、先生と生徒、学校と家庭を結ぶ温かい流 れ、校風をよく理解され、自然を礼讃し協同する態度、郷土愛の気分もよくわかっ た、といわれる。 近所にあるもので自然美で目につくものは、と尋ねられて、十和田湖の美しさを 申上げる、先生は却って知っておられる様子だったと。山でよい山はないかと尋ね られて、五の宮岳、川を尋ねられて米代川。先生から林檎の話しが出たので、林檎 とマルメロの花の美しいこと、林檎畑の真赤な実の美しさ、マルメロの実の香りを 強調する。 「明日は参謀本部の地図を持ってきて、鹿角郡を説明して下さい。」といわれ、 早速神田で地図を六枚買い求めてつなぎ合せ、郡境を紫、川を青、町を赤で明瞭に して持参、この地図にもとづいて、郷土の話しを詳細に申し上げる。十和田湖のこ と(先生の十和田湖についての造詣の深いのに更に驚嘆した、と。)、大湯温泉の 田園味、湯瀬村この情緒、八幡平の壮美、蒸の湯の珍しさ、山の恵のシドケ、ボン ナ、山ウド、竹の子の野趣味、……宮川、曙、錦木、花輪などの町村の名の美しいこ と、また、謡曲錦木塚の伝説、話しは渾々として尽きない。「広地もあるね」とい われて花輪柴内一帯の田地、毛馬内の盆地、内藤湖南先生のこと、無毛馬内の盆踊 りのこと等々……。 翌日またお訪ねする、十和田湖の話しが出た、先生はいゝ湖だと激賞した。それ から、「林檎はいゝね」といわれた。「鹿角は詩になる」とも、「鹿角は詩に謡ひ いゝ」ともいわれた。 「校歌は厳粛なのがよいか、快活なのがよいか」とも訊かれた。ある大学?の校 歌に快活の調子で「ララララ」の囃言葉の入ったのをつくったことがあると。私の 学窓には、快活で朝夕少女が好んで口吟むようなのが欲しい、学校タイプのあるの は嫌いだし、教員臭い先生は嫌いだと私達の教育理想と感情を申し上げ、「快活は 欲しいが、私の方の校歌はララララにならないようにして下さい」と、甘えた気儘 なことを申し上げられる気持であった。先生「御満足のうたは出来ないかも知れな いが、うたへるやうな気持になったから、作って上げましょう。」。この声、飛び 立つ程の嬉しさであった。お忙しい中を四日間時間を割愛されて、いゝ校歌をつ くるべくその気分をつくるために、お心儘し下さったことを思って、心からなる感 謝を献げた。 別室で事務長にお会いして、校歌の謝礼を尋ねたら、三百円が例になっていると のことに、予算の貧弱なこちらのことを思って、何んともいゝかね、「後ほどご挨 拶申し上げます。」とお別れした。 続いて、山田先生を銀座の交響楽協会にお訪ねする。 山田先生は矢張り学風をお訪ねしながら、種々御懇談がある。郷土のことを訊か れたので、白秋先生にお話したと同様のお答へをする。特に山の色の変化の自然美 や人情美などをお話し申し上げる。そして校歌作成は、御大典(註:昭和三年昭和天 皇即位)記念事業の一つとして計画したもので、他に尊皇愛国に関する書籍の蒐集 や、同じくその講演会の計画のあることを申し上げたら、先生はこれを激賞した。 先生は御大典の記念事業として、八代海軍大将と協力で明治大帝御製頌歌をお作り になり、全国に普及させようと努力されていることから、この日午前は大将のとこ ろに新年の挨拶にいってきたことまでも愉快そうに話された。先生はご承諾の御模 様であったが、謝礼の問題があるので、次の日を約して別れることにした。 牧野事務長に面会して謝礼のことをきく。こちらでも三百円であるとのお話であ ったので、またしても大問題に乗り上げた。それから、こちらの予算の大要を申し 上げて、山田先生にも御相談してしておいて下さるようにし依頼して別れた。 |