下タ沢会によせて(覚書)

附2 尾去沢小学校校歌の周辺

 尾去沢小学校校歌の周辺(4)
 
(前回、作曲の謝礼は三百円といわれた、ところで終っていましたが。)
 七日午後、交響楽協会に山田先生を訪問する。先生は「学校にも種々な事情 があるだろうから、ありのまゝに話してきかせてくれ。」とのことに、記念事業費 の総額は約三百円で、校歌の作歌に百円、作曲に百円、尊皇愛国に関する書籍に百円 を見込んでいる旨を申上げた。
 先生は事務長を呼んでその旨をお話しになると、新例を作られては困ると渋られ た。先生は「では三百円ということにして、内二百円はこちらから花輪女学校校友 会に寄贈することにしようではないか。」と、涙の流れるほど有難い案を出して下 されたのに、事務長も快諾なされた。
 その上山田先生は、期間について尋ねられた。卒業式までには四年生のためにも 特に謡せたいと思って、北原先生にそのお願いをしてきたことをお知らせしたら、 北原先生は推敲を十分にする方だから、そんなことでは間に合わない、帰校したら 手紙を出して紀元節(今の建国記念日)には謡へるように願い直すがよい、と智慧 をつけて下された。
 山田先生と別れてから、牧野事務長から北原先生に電話をかけて謝礼についての 事情を申し述べてもらった。すると北原先生は早速快諾されたのみならず、送って 下された林檎が昨日到着したと厚く礼をいわれた。こうして何にもかも好都合に運 び、喜びの絶頂に達したので、取りあへず躍るような気持で、学校の留守居の先生 に宛てゝ「校歌二大先生御快諾」の電報を出した。
 
 十一日七時花輪に帰ってきた校長先生は翌日一校時、生徒達に校歌のご承諾を得 るまでのことを話た。皆はもう出来上ったように喜んだ。十四日には白秋先生に対 し先生達一同で寄せ書きを送り、生徒もお願いの葉書を送って、校歌の一日も早く できるようにとの願いを披瀝した。
 一月二十五日、午前十一時に十分、思いがけなくも喜びの電報が配達された。 − 「校歌出来た今送る北原」 − 教員室にいた先生達は、歓声をあげて子供のように 嬉しがった。電報は直ちに掲示板に示す。電報を見た時の驚喜!、それは若い心の 子等にとってどんなにか大きなものであったろう。お礼の電報を出す。 − 「校歌 出来て皆喜んだ有難う。」
 それから郵便の配達を待った。局にも電話した。二十八日、午後一時四十五分そ の書留郵便が配達された。大きな状袋!、先生の筆蹟!、それから北原白秋という 先生独特の署名、「昭和四年一月廿四日完成」とある。「歌見た、やんやと喜ぶ」 とお礼の電報を出し、その日のうちに山田耕筰先生に作曲依頼の手紙を出す。
 
 次は山田耕筰先生の作曲を待つばかりとなった。三一日、「すばらしい校歌早く 謡いたい、花輪高女」と電報。北原先生へのお礼の寄せ書きと同時に追かけて山田 先生への寄せ書き、「早く早く」。すると何んのこと、また何んという喜びの連続 か、「校歌今朝書留にて送った、山田」と電報。一日、二日と待つ、まだこない。 その代り山田先生直筆のお手紙が来た。「お手紙頂いたのは作曲中でした」「なだ らかな明るいものに作りました」「二重唱にして作りました」など躍り上るような 言葉が連ねてあった。四日午後三時十五分、その書留が配達される。
 
山田耕筰先生の手紙
「拡大写真」
 
 こうして花輪高等女学校の校歌はできた。
 私はなぜ私達には直接関係のないようなことを、長々と書いてきたかといゝます と、はじめにもいゝましたように、私達の校歌がどのようにして作られたかを尋ね る由もなくなった今、花輪高等女学校の校歌のできるまでの課程に、私達の校歌を 重ねて、たゞ単に有名な先生であった、だけでなく、そのできるまでの過程を通じ ながら、待っているであろう学校や子供達のことを思って、できた、送った、と電 報を打ってくれた二人の先生の温かい心、人柄にふれることによって、一層私達の 校歌に寄せる思いを深め、「尾去沢、尾去沢、……」と誇りをもって歌い継いでい きたい。

[次へ進んで下さい]