尾去沢小学校校歌の周辺(4)(続き) 北原白秋が尾去沢の校歌の想を練るときに、心の中に何を思いえがいていたゞろ うか、尾去沢からお願いに行った人が、尾去沢についてどんな説明をしてかはわか らないが、花輪高女の矢島校長先生が、子供達の教育によせるひたむきな情熱をこ めて、一生懸命話された鹿角の風土、人情、自然、そうした情景が沸々と心の中に よみがえり、想を固めていかれたのではないだろうか。 空青く、水清く、光深し、と白秋先生がうたってくれたこの鹿角を、尾去沢を、 私達は大事にしていきたい。 やがて子供達は、都会に出て行くだろうが、それはたゞ単に仕事がないから、不 便だから、楽しいことがないから、と利便性や華やかさのみ求めて出て行くのでは なく、いゝかえれば、魅力のない過疎の地として郷土を眺めるのではなく、空青く、 水清く、光あふれるふる里として、何ものにも代え難い心のよりどころとして、胸 底深くきざんで出て行ってほしいものだと思う。 尾去沢は、長い歴史を誇った鉱山はなくなった。が、山はある。山はなくならな い。私達は、この山を大事に生かしていきたい。 私は、水晶山からのハイキングコースを作りたい、五十枚に登る道を作りたいと 思うのも、一つは子供達にふる里の山河を自分の足で踏みしめ、自分の目でしっか り見つめて欲しいと願うからである。 今、都会で起る殺伐とした身も心も凍るような事件を思うとき、過疎の地といわ れ、田舎と嗤われるこの土地の果す役割りはなんだろうか……。 私は、都会はすべて悪いというのではない。都会には都会のよさも魅力もあるだ ろう。たゞ時流に流されて自分を見失うことのないように、しっかりと心を支 えるものを持ってほしいものだ、と一人心にくり返している。 校歌は、たゞ単に学校の儀式や行事のためのみにあるのではない、それは子供の 教育の原点であり、私達の人生の一つの指標でもある。と私一人、物をおぼえたよ うに力みかえっているわけではないが、七十年前矢島校長先生が一生懸命語った、 過疎の地としてではなく、空青く、水清く、光あふれる豊饒の地としての鹿角の 姿を、今一度思い起し、ふる里の山河に夢と希望を託し、誇りと自信をもって歌い ついでいきたい(終り)。 ◎北原白秋:明治十八年(一八八五)・一・二十五〜昭和十七年(一九四三)・十一・二。 福岡県柳川市出身。近代を代表する詩人、歌人、童謡詩人。 明治三十七年(一九〇四)上京、早大英文科予科に入学、翌年中退詩作に励む。 三十九年与謝野鉄幹、晶子夫妻の新詩社に入り、頭角をあらわす。以来詩に短歌に 活躍する。大正七年七月児童雑誌「赤い鳥」が創刊されると主宰者鈴木三重吉に協 力、ほゞ毎月童謡を掲載、以後一〇〇〇編近い作品を生む一方、投稿の童謡や児童 自由詩の選に当り、童謡運動を指導進展させた。また十一年には作曲家山田耕筰と 「詩と音楽」を創刊、詩と音楽の提携を図る。その後も創作の刊行、理論書の出版、 雑誌創刊、後進の育成と詩、短歌、童謡の三つのジャンルにそれぞれ力を尽し、大 きな足跡を残した。「白秋全集」全四〇巻がある。 ◎山田耕筰:明治十九年(一八八六)・六・九〜昭和四十年(一九六五)・十二・二十九。 東京出身。 大正から昭和にかけて日本の現代作曲界、演奏会の土台をかたちづく った指導者。明治三十七年(一九〇四)東京音楽学校に入学、同校に作曲科がなか ったので、明治四十三年から大正二年までベルリン高等音楽学院で作曲を学んだ。 帰国後二本最初の交響楽団である東京フィルハーモニー管弦楽団を創設し、自作を 指揮発表。同七年にニューヨークに渡り、カーネギー・ホールで自作管弦楽作品を演 奏、ニューヨーク近代音楽協会および全米演奏家組合の名誉会員に推挙された。ま た小山内薫と組んで新劇運動に積極的にかゝわる。同九年二本楽劇協会を創立、 オペラ上演をこころみる。また同十一年北原白秋と共同編集の月刊「詩と音楽」を 創刊、連作歌曲を発表。また舞踊家石井漠と共に舞踊詩をこころみ、日本のモダン ・ダンスを創始した。山田は交響楽運動や楽劇運動の先駆者、創作歌曲の実践者であったゞけで なく、さまざまな領域の可能性の場をこゝろみ、育成し、展開するための創作活動 への行動をつづけた日本近代芸術草創期の実践者であった。昭和十七年日本芸術院 会員、三十一年文化勲章受章。 ○朝日新聞編「日本歴史人物事典」参考
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