下タ沢会によせて(覚書)

一番はじめは一の宮

 さて、さよなら三角ともなれば、話しも終りになるわれだが、この歌を思い出し たとき、ウーミはヒロイまでは順調にいったが、その後はなんだか思い出せない。 何日も何時間もたって、たぶんこうではなかったかナ、と思って、ヒロイはノハラ をつけたが、それでいいのか本当のところ自信がない。それはそれとして、最後に この一の宮の歌を書いておこうと思った。鹿角市史も「一番はじめ」という題目(曲 目)にして一覧表にのせている。
 この歌の元になっているのは皆さんご存じのように、徳富蘆花の小説「不如帰」 で、これは明治31年11月29日より32年5月24日まで、国民新聞に連載されたもので、 海軍少尉川島武男の出征(日清戦争)と愛妻浪子の病患(肺結核)をめぐる家庭的 葛藤を描写(広辞苑)したものといわれ、モデルは陸軍大将大山巌の娘と子爵川島 弥太郎といわれているが、もちろん小説の中味と事実は違うわけだが、明治大正を 通じてこれほど広くかつ永く読まれた著書は少ないといわれている。ということで、

 参照: 「一番はじめは一の宮」
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 少し語呂の違いはあると思いますが、大体以上だと思います。
 これを鹿角市史にある外の地区で歌われているのをみると、一、二はいいが、三 は桜の吉野山、四、五によくて、六は村々地蔵さん、七、八、九はよくて(さんか 様かは別として)、十は東京急列車。次はよくて、浪子の病気は治らない。汽車の 音はゴーゴーは4ツで、そのかわり「と」がない。そして浪子と武男の生別れ、二度 との次に会えない、となっている。後は同じ。ということだが、私達の方はなんと なく筋が通っていて、表現もやわらかい気がする。身びいきか。
 
 さて一番の一の宮だが、これは各地にその地方を代表する、その地方の一の宮が あるので、そのお宮はどこでもいいとして、二はいうまでもないが、三の佐倉の宗 五郎だが、これは昔佐倉義民伝などという講談本を読んだものの出番となるわけだ が、忘れてしまった。ということで、木内宗吾(惣五郎、宗五郎とも)は下総国 (千葉県)佐倉領公津(こうづ)村の名主、領主の苛酷誅求、重税に苦しめられた 農民を代表して将軍に直訴、幕府はその訴えを取上げて調査、百姓達の願いは受け 入れられ、領主も処分されたが、将軍直訴は極刑に当る、宗五郎と妻は磔(はりつ け)の刑となり(明暦元年(1656)2月)、子供4人も打首となったという。後年佐倉の 百姓達が神社を建てて宗五郎夫妻を祀った、と思っていたが少し違うようだ。それ は佐倉藩(別家?)により、口ノ明神として将門山に祀られる。明治以降衰退する が、惣五郎の墓所とされる成田市東勝寺は宗吾霊堂として現在も多くの人々に信仰 されている、という。
 
 信濃の善光寺は由緒ある古い大きなお寺として皆さんご存じのとおりですが、 「牛に引かれて善光寺参り」という言葉があるが、どんな話しだったか、今さがせ ないでいる。たぶんどこかに強欲非道の鬼ババアみたいなのがいて、何にかのとき 牛に大事?にしていたものを取られて、夢中になって追っかけて行ったら、牛は善 光寺に逃げこんだ。そこにはいっぱい人が集まってお尚さんの話を聞いていた。鬼 ババアもなんだろうと思って聞いているうちに、お経の有難さが身にしみて、以来 心を改めて良いバーサンになった。何にかの本?に牛が角に細長い白い布れのよう なのを引っかけて、バーサンが後ろを追っかけている絵を見たような気がする。仏 教の布教に関する説話かもしれない、というのは私の勝手なでっち上げで、このこ とは信用しないこと。
 
 五ツ六ツはいいとして、七ツの成田の不動様、真言宗のお寺、成田山新勝寺、通 称成田不動。940年(天慶3)寛朝が神護寺護摩堂の本尊不動明王を奉じ、平将門の 誅滅を祈り、平定後堂宇を建てたという。元禄年中(1688〜1704)現在地に移 建(広辞苑)。平将門の死は天慶3年2月14日。
 
 八ツでなんだ、何んとしても思い出せない、ではないかと思ったが、そこで妹 (栄子)に電話した。山田の八幡宮でなかったか、という。それでよしとした。が、 日本を代表するような八幡宮では、山田というのはないみたい。しかし八幡さんは 稲荷さんに次いで神社が多い。日本中いたるところに八幡神社はある。となれば、 どこの八幡さまでもよい、これは単なる語呂合せで、八ツは山田としたのではない だろうか。これは私のあてずっぽうだが(本当はどこかに有名な山田の八幡さまと いうのがあるかもしれない)。
 
 九ツはよいとして、十で東京招魂社。東京の招魂社は明治12年に靖国神社と改称 されたという。ということは東京の人達は明治の終り頃になっても、靖国神社を招 魂社といっていたのだろうか、それとも各県に招魂社があるように、別に建ててい たろうか。
 
 さてさて、浪子と武男の別れ汽車ではないが、ここらで子供の頃の歌ともお別れ とするが、まだまだいっぱいあるので、皆さんもいろいろ思い出してみて下さい。 特にこうした歌は、女の人が主役なので。
 こうして書いていて、また思うのは、あれはお手玉取りか、まり突きのときだっ たろうか、歌いながらやってうまくできると、「先ず先ず一貫借しまーした」とい うのがあったが。そういえば、私達が子供の頃は大小様々、きれいな花模様などの ついたゴムまりがあったが、今は見る事はないような気がする。あれはいつ頃から 無くなったろうか。

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