こうして明治の初めの68ケ村+2ケ村が大区小区だとすったもんだの末、10年かか
って、70ケ村から3分の1の23ケ村になったわけですが、この23ケ村を前の表から拾
い出すとなるとわかり易いようで、数え落しなどでややこしい(私は)。そこで横
一列に整理してみると、 ○七小区:大湯・草木・錦木・末広・岡田・瀬田石・毛馬内・荒谷・大地・上向・山根・小坂・ 小坂鉱山・平元(14) ○八小区:柴内・花輪・宮麓・長谷川・長井田・松谷(6) ○九小区:尾去沢鉱山・三ツ矢沢・尾去(3) 合計23ケ村となる。これを合併した村名の由来(なぜそういう名前にしたか)と いう面からみてみると(鹿角市史からの受売り)、おおむね三つの類型に分けられ るという。 ○一つは、花輪・大湯・柴内のように、地域の中心的大村の村名とした例。 ○二つは、土地の地勢や歴史に因(ちな)んで佳字(かじ、嘉字とも)を選ぶ場合。 旧跡錦木塚を採った錦木村の例。私見ではあるが、として、岡田村は大湯川氾濫原 のうち、比較的高位に広がる水田地帯。宮麓村は五ノ宮岳の西麓、山根村は黒森山 の西側山麓を刻む汁毛川と高清水川にそうている。末広村には二説が考えられ、藩 境の象徴ともいうべき(南部と秋田の境界争い、御境柱が10本立てられたという) 扇袋の(今も末広字扇袋の地名あり、土深井のあたりか)扇にかけた末広か、もし くは男神・女神の狭窄部を扇の要として下流へ末広がりとなる地形の表現であろう。 やや明確でないのは平元村で、平が小平村のことなのか、菩提野扇状地の大部分を 占める地域なことから広い緩傾斜地を意味した平(ヒラは鹿角方言では傾斜地のこ と)なのか、あるいはその両方であるかもしれない。元は基に通じ佳字である。 ○三つはいわやる合成地名で、長谷川村は長嶺の長・谷内の谷・川部の川の組合せ、 長井田村は長牛長内の長・夏井の井・三ケ田の田を、松谷は松館の松と石鳥谷の谷を それぞれ組合せたものである、という。 こうしてまた10年程して、明治22年この23ケ村が合併して10ケ町村になる。上記 の例にならってその町村名をみてみると、 ○宮川村は宮麓と長谷川を、柴平村は柴内と平元をそれぞれ合成して村名とした。 ○曙村は村内を流れる夜明島川の夜明けを転化し、錦木村と七滝村は村内の名所旧 跡を採った。 ○外は主要地域の村名によった、という。 こうして鹿角は昭和31年、尾去沢、八幡平、花輪、十和田、小坂の5ケ町村になった が、「有識者の間には、鹿角市建設の願望が底流として絶えずただよっていた」と いう。この合併後も広域行政の見地から、いろいろな郡内の機関が町村の枠を越え て統合されていったが(五ケ町村精神病院組合の設立、農協の合併、衛生処理組合 のし尿処理場の建設等々)、鹿角市の誕生はそう簡単に一朝一夕にとはいかず、変 転難行の上、昭和47年4月1日、尾去沢町・八幡平村・花輪町・十和田町が合併して鹿角 市となり、小坂町は一郡一町となった。 |