下タ沢会によせて(覚書)

大区小区制の廃止 − 郡制へ −

 この大区小区制は、新政府が急遽中央集権政治へ移行するためとった方策であったが、 その後内務省内部においても、数百年来の慣習である郡や町村を復活すべきである という議論が高まっていた、ということで、
○明治11年7月22日、地方行政の体制改正を図る「郡区町村編成法」が公布された。 その、
  第1条 地方を画して、府県の下郡区町村とす。
  第2条 郡町村の区域名称は総て旧に依る(以下略)。
 大区小区制の下において殆どその本来の意味を失っていた村が、ここに法的存在 として再生し、旧名旧地域のまま独立自治体たることを法定されたのである。
 
 ということで、鹿角郡も復活したわけだが、当時の書類を見ると、例えば、第二 大区九小区尾去沢鉱山平民阿部恭助、などというのがあり、郵便の宛名も、秋田県第 ○大区○小区○○村何野何兵衛などと書いたのかもしれない。何んとなく今の郵便 番号を思わせるが。郵便制度ができたのは、明治4年1月24日布告、3月1日実施とい うことで、東京、京都、大阪間に開始されたのがはじまりといわれ、翌年全国的に 実施というが、鹿角では明治7年3月25日、花輪、毛馬内に郵便取扱所が開設された といわれているから、全国的には一斉にではなく、逐次整備されていったものと思 う。

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