明治6年2月、秋田県は三たび区制を改めて七大区四十八小区とする(大区が細分
された結果、取締まりや、布達ひいては後の地租改正取調べなどにいろいろ不都合
が生じたという)。 さて、その区別は、 ○大区:一郡を以て一大区と為す。但し河辺、鹿角両郡は高少く地小に、秋田郡は 高多く地大にして且地形相接するを以て、秋田郡を半割いたし両郡へ合せニ大区 となす(即ち鹿角郡は北秋田郡と共に第二大区となった) ○小区:高一万石戸数二千軒内外を以て一小区となす(市街地は三千の木内外、 鹿角郡は三つの小区となる) ということで、現在の南秋田郡、北秋田郡は一つの秋田郡であったが、この時二 つに分け、南秋田郡に河辺郡を合せて第一大区とし、北秋田郡に鹿角郡を合せて第 二大区とした。 ○初め毛馬内通りを六小区、花輪通りを七小区とする二つの小区であったが、9月 14日付県触示により、阿仁六ケ山と尾去沢鉱山がそれぞれ独立し一小区を編制したので、 それに伴い、 六小区(毛馬内通)が七小区、七小区(花輪通)が八小区、 尾去沢一カ山が九小区となった。 ただし同年12月8日、八小区内四村(石鳥谷・松館・尾去・三ツ矢沢)が九小区へ 編成替になっている、という。 |