下タ沢会によせて(覚書)

尾去沢、小坂は特別扱い

 現在の尾去沢には、古くから尾去村、三ツ矢沢村の他に鉱山集落(西道 = 石切 沢・田郡・元山・赤沢・笹小屋・瓜畑等)があり、尾去沢御銅山といって、その地籍、民籍 は、藩政時代は直轄であった。それが明治になっても独立の行政区となっていたも のと思う。
 明治2年6月盛岡県から稼行主鍵屋(村井)茂兵衛に交付された免許状からすると、 旧藩時代のまま「一切相任……」とあり、江刺県時代も花輪分局所轄の特別地域で あった。秋田県となり、大小区制となって行政上同じ扱いを受けた時、明治6年、鉱 業の扱いにいろいろ不便障碍があるというので、時の鉱業主岡田平蔵の目代槻本幸 八郎が県に請願して、独立の「扱所」をおいた。以後「尾去沢鉱山」として戸長又 は戸長役場をもち、独立の行政区扱いを受けている。小学校も又新学校の後尾去沢 鉱山小学校(明治17年)と称したが、鉱山立(私立)の意味ではない。明治22年の 市町村制の際、尾去村、三ツ矢沢村と合併して、はじめて尾去沢村となる。同様に 小坂鉱山も独立行政区の扱いをうけている。という。
 
 前記の70ケ村ということは、鹿角両通り68ケ村に、尾去沢鉱山と小坂鉱山を加え て70ケ村になるものと思う。ただし第一小区のところに、小坂鉱山はなく、ただ小 坂とあるが、それが小坂鉱山を指しているものか、私にはわからない。
 
 なお、尾去沢鉱山小学校というのは、鉱山私立の意味ではない。といっているが、 尾去沢小学校百周年記念誌には「私立学校尾去沢鉱山小学校」という記事があるの で、その関係はどうなのか確認してみたいと思っている。また学校名の一覧表には、 明治7年12月又新学校として、 → でつないで、次は明治17年尾去沢鉱山小学校と なっているので、この10年間は又新学校と称していたものか、百周年記念誌にのっ ている卒業証書などは明治11年までよりなく、それには又新学校と書いているので、 それまで又新学校と称していたことはわかるが、それ以降のことはわからない。

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