下タ沢会によせて(覚書)

鹿角はどのようにして秋田県になったか

○明治4年11月2日、江刺県廃止、鹿角郡は秋田県に編入。
 明治4年7月14日、政府は廃藩置県を断行。結果261の藩は廃され、1使(使とは開 拓使)3府302県となる(この前段階として明治2年6月17日藩籍奉還が行われ、274藩 が藩籍を奉還し、藩主は改めて藩知事に任命されている)。政府は大小犬牙錯綜し ている諸県の統合廃止を計画し、このとき鹿角は江刺県即ち旧南部領との長い縁を 切られ、秋田県に編入されることになった。
 この間の事情は、あまりくわしいものはない。唯いえることは、鹿角郡は地理的 にみると分水界からいって、米代川の水系からいっても、当然裏日本の位置を占 めるものと思う。後年(明治11年)北秋田郡と合せて一郡にしてしまおうと上申し た趣意書にも、鹿角は狭いからではなく、「(前略)風土民俗略亦同し、区画編制 の際此の両地を併せて一大区とし……。地勢習慣の二つの者による」としているこ とから考えられる。元々出羽国の上津野(鹿角)である。それが中世南部氏の領地 となって以来、陸奥、陸中として表日本の中に行政されてきた、長い間の南部家又 は南部領民として生活感情があったのであるが、御一新の考え方から秋田県に編入 されたのである。といっている。実際には明治5年3月正式に編入されたという。

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