鹿角は南部藩時代花輪通りと毛馬内通りに分けられていたことは、前にも書いた
が、更めて「通り」とはどういうことかと、みてみると、 ○通り:南部藩では地域行政区分として代官(主君に代って官職を代行する者)支 配区域を「通り」と称した(10郡33通り)。通りの外に鹿角を南北に区分して花輪 通分「上浦(かみら)」、毛馬内通分を「下浦(しもら)」と呼称する慣用語があ る(という、私の父は、どこのことをさしたが知らないが、「かみら」がどうのと いっていたのを、子供の頃聞いた記憶がある。今では花輪あたりでもほとんど使う 人がいないんではないだろうか)。 それはさておき、明治になるまで鹿角の町村は、どのようになっていたかという と、 ○寛永11年(1634)幕府に提出した鹿角の郷村数は33カ村で、この村数は「公儀書 上げ」郷村数として、藩政末期まで移動はなかったという。即ち、 ○花輪通代官分:小豆沢・湯瀬・大里・夏井・長牛・石鳥谷・川部・長嶺・谷内・三ケ田・尾 佐利・松館・花輪・高屋の14カ村に、二戸郡田山村を加えた15カ村。 ○毛馬内通代官分:松山・小枝指・大掛・柴内・乳牛・高市・新斗米・小平・寺坂・草木・大 湯・高清水・関上・古川・毛馬内・大地・瀬田石・荒川・小坂の19カ村。 しかし実際上の行政単位は、元禄(1688〜1704)の頃から定着して69カ村となり、 これを通り別にみれば、花輪通りは田山を含めて24カ村、毛馬内通りは45カ村で あったという。 |