下タ沢会によせて(覚書)

鹿角はどのようにして秋田県になったか

 明治元年12月7日の南部侯の白石転封にともなって、鹿角の武士(御給人)はもと より花輪南部氏、毛馬内桜庭氏等の家臣団は、武士をはなれて町民となっていく。 このとき新政府は官軍の諸藩はそのままとしたが、官軍に抗した諸藩の領地は没収 して、旧幕府の領地と共に新政府直轄地となし、そこを「府」「県」となす、いわ ゆる「府県藩三治制」を布くことにしたのである。そこで南部侯の処遇が確定する と、旧南部領は新政府に収められて県治施行となったのである。即ち「三戸県」・ 「盛岡県」・「花巻」がそれである(これらの記事は「鹿角のあゆみ」・「鹿角市史」 等によっている。この先も)。
 
○明治元年12月7日
 三戸県:北郡・三戸郡・二戸郡
 盛岡県:岩手郡・紫波郡・稗貫郡・上閉伊郡・下閉伊郡・九戸郡・鹿角郡
 花巻県:紫波郡の一部・稗貫郡の一部・和賀郡・上閉伊郡(遠野通)、外に仙台領 江刺郡、気仙郡。
 
○明治2年8月7日、政府は南部侯の盛岡復帰を認め、盛岡藩を設立させ、新たに九戸 県、江刺県を設立。鹿角は九戸県に所属した(三戸県・盛岡県・花巻県は廃止)。
 これによって旧南部領は中央に旧藩主による盛岡藩、その北に九戸県、南には江 刺県に三分された(この時点では藩制度は生きており、廃藩置県になるのは明治4 年)。
 
○同年8月16日、政府は奥羽諸藩の没収領分に対し、「奥羽十県設置令」を布告、 新たに若松県、福島県、白石県、白河県、石巻県、登米県、胆沢県、酒田県、江刺 県、九戸県(鹿角はこの新九戸県に所属)を設立した。
 
○同年9月13日、九戸県を八戸県と改称。
 
○同年9月19日、八戸県を又々三戸県と改称。
 ここで鹿角は、ともに盛岡県であった九戸(野田通)と共に、元の三戸県(北・三 戸・二戸)と合併して「九戸県」に管轄されることになった。その県庁は太平洋岸の 九戸郡に置かれることになったが、然しそれは地方の実際を知らない中央政府の机 上策であったと思う。即ち九戸郡は八戸領で、管轄となった北・三戸・二戸・鹿角の四 郡とは余りに偏しており、施政管理上無理があり、県庁所在地として適当でなかっ た。それで僅か1カ月にして、9月13日八戸県と改称。然しこれもその名称は従来か らある八戸藩と混同するおそれありとして、9月18日、僅か数日にして又々「三戸 県」と三変、県庁は三戸に設置されて落着いたのである。勿論これは名称だけの三 変といってよく、三戸県は事務の引継ぎを南部藩から受けて、事実上の三変はして いない。という。
 
○同年11月28日、三戸県廃止により鹿角は江刺県に編入。
 これはこの11月、若松藩主松平容保の処分が決定され、家名を立てることが許さ れ、息子の容大が藩知事となり、新たに陸奥三万石を与えられて「斗南(となみ) 藩(大湊)」が現出した。がその領地三万石として、三戸県所轄の大部分たる北郡 の一部が与えられたのである。すると三戸県の内、残りの鹿角郡、二戸郡、九戸郡 の一部では県治区域としては余り狭小となるので、三戸県は廃され、これらの郡は 飛地のまま「江刺県」に編入されたのである。
 
○明治3年4月、江刺県花輪分局を設置。
 江刺県は鹿角郡等を編入すると、江刺県岩谷堂にあった県庁を幾分鹿角に近い遠 野に移しているが、なお行政的に不便のため、明治3年4月「江刺県仮規則」を定め、 鹿角統治の方法を講じている。それは、「鹿角郡花輪を県の分局となす、右分局は 鹿角二戸九戸三郡のことを取扱ふべし、但し二戸郡福岡に別に出張所を置き、花輪 に属して二戸、九戸を取扱ふべし」という次第。

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