下タ沢会によせて(覚書)

陸軍大将一等兵

 この忠魂碑は、元の小学校の観覧席になっている小高い丘の中央に建っていた。 私が高等科になったとき(昭和10年)この碑を見て、陸軍大将一等兵(一戸兵衛) かと思ったので、未だにその名前を忘れずにおぼえている。
 この碑を建てた昭和三年の御大典とは、昭和天皇が京都御所紫宸殿に於て即位の 大礼をあげられた(11月10日)ことを指すと思うので、尾去沢でもこれを記念して 忠魂碑を建立したものと思う。はいいとして、この陸軍大将一等兵はどんな人かわ からなかったので、辞典(歴史人物辞典)を見たら、
 「一戸兵衛、安政2年(1855)〜昭和6年(1931)、76才、弘前藩士の子、20才の とき陸軍兵学校寮内の戸山学校に入学、日清戦争時少佐、明治34年少将、日露戦争のときは金沢第 6旅団長、旅順攻略戦に参加、特に第2回旅順総攻撃では、のちに一戸保塁と命名 された盤竜山P保塁の奪取に成功、同攻撃中唯一の戦果をあげ、勇名を轟かせた。大 正4年大将に昇進、後教育総監、大正9年後備役、現役時代兼任していた学習院院長 および明治神宮宮司、帝国在郷軍人会会長。乃木希典との友情は有名」という(一 部省略して記載)。
 
 また横道にそれるが、「乃木希典との友情は有名」といわれても、二人の伝記で もみないとよくわかからないが、一戸兵衛も西南戦争に従軍したという。乃木希典 はこの戦争の田原坂の激戦で、連隊旗を失っている。これが乃木大将の心を終生苦 しめたという。もしかしたらこのあたりから、二人の深い結びつきがあったのかも しれない。一戸兵衛は乃木大将より四ツ年下のようだ。ともあれ、一等兵などと私 は茶化していたが、一流の軍人だったようだ。
 
 その一戸兵衛にどういう経緯で、忠魂碑を書いてもらったろうか。昭和3年といえ ば、亡くなる3年前だ。隣の青森県人だからでもないだろう、乃木大将と仲良しだっ たから(尾去沢小学校では、乃木大将が自刃された翌大正2年から毎月1回9月13日 (自刃された日)に乃木会というのを開催して、その遺徳を追慕し人間修養の会を やっていた、その縁で)、ということでもないだろうと思うから、これはやっぱり 帝国在郷軍人会の会長だから、ということでお願いしたのかもしれない。

[次へ進む]  [バック]  [前画面へ戻る]