考えてみれば、この60年近く戦争のない時代が続いたものだ、明治以降をみても、
10年おきぐらいに何にかの血なまぐさい事件や戦争があった。尾去沢鉱山も満55歳
になれば停年退職だった。終戦の年に生れた子供も、この例でいえば、すでに停年
退職して第一線を退く年だ。それなりの苦労はあったにせよ、戦争のない平和な時
代が長く続いたものだと思う。 鹿角市では毎年8月10日頃(土日に当れば変更もあると思うが)、「戦没者顕彰・ 平和祈念のつどい」として、今次大戦々没者の慰霊祭を行なっている。それに続い て9月1日には尾去沢の遺族会(鎌田高雄会長)の人達が、尾去沢関係者の慰霊祭を 行なっている。 この慰霊碑に名前の刻まれている戦没者は、昭和12年の北支事変以降はわかると しても、昭和6年からの満州事変の戦死者(いたとして)はどうなっているだろ う。忠魂碑を建てたのは昭和3年であるから、おそらくそれには明治からその時まで に戦死した人達を慰霊顕彰したものと思うから、新しい慰霊碑はそれ以降(となれ ば満州事変も入るが)の人達を顕彰する慰霊碑だと思う(後日確めてみたいと思っ ている)。 ただこの碑の裏に刻まれた名前の中に、相馬敏男の名はあるが、義夫の名前がな い。見落しかと思って何度も見直したが、やはりない、考えてみたらこの顕彰碑は 昭和41年遺族会と町の方で建てたので、遺族会に入っていないというか、遺族のい なかった人は入れなかったかもしれない、となれば義夫の家族は、昭和27年頃秋田 市の方に行ったので、義夫の名前がないのは当然ということになる。それはそれで 止むを得ないとして、秋田市の方にもこうした慰霊碑があるだろうか、あったとし ても、お前は秋田市の出身ではないから、と秋田市に方でも仲間に入れてもらえず、 はじかれているのかもしれない。私が先に沢出可禄の鎗持左蔵のことに何度もふれ ているのも、彼もまたどこに行っても慰霊碑の仲間に入れてもらえず、単に戦さの とばっちりを受けて死んだ人間として、ふる里の墓に葬むられて終ったのではない か、義夫のことがあるので、その思いがつきまとっていた。 この慰霊碑の正面は、中央に大きく慰霊碑、その左側に秋田県知事小畑勇二郎書、 裏面は上4分の3程に、何列かに戦没者の名前を刻んで、その下に5行に、 「英士一たび戦に召されて立帰らずと雖ども芳魂永久に祖国を護り平和の礎とな る茲に有縁の遺族造碑に際し挙町之に賛助し慰霊以て芳名を永く児孫に伝う」 昭和四十一年九月一日 尾去沢町長 児玉政吉 遺族会会長 佐藤末吉 となっている。古い忠魂碑の方は同じように、正面には忠魂碑、陸軍大将一戸兵衛 書、裏面には上半分くらい中央に、御大典記念事業、下半分右側に昭和参年拾壹月 建之、左側に、帝国在郷軍人遺族会尾去沢村分会、となっている。 |