下タ沢会によせて(覚書)

「安重根義士と千葉氏の顕彰碑文」から

 前の方は省略して途中から、
 「実直にして正義に厚き東北人の一人であった、千葉氏の目に映った獄中の安義 士の挙動は、正に国の運命を憂い民族の独立と名誉を守るため、身を捧げた清廉な る人格の士であり、時に語る平和への高邁なる理念には、強く胸を打たれた。義士 を称える事が公然とできぬ当時の情勢にありながら、千葉氏は義士に同情を禁じ得 ず、心ひそかに尊敬の念さえ抱くに至り、出来得る限りの労を尽くして、やがて刑 場に消えゆくであろう其の身を惜んだ。
 義士もまた、当時の日本人としては珍しい千葉氏の人間性あふれる知遇に応え、 3月26日死に赴く直前、軍人たる千葉氏にふさわしい一文を墨して贈った、曰く、
 為国献身軍人本分(国のため身を献げるは軍人の本分なり)
 
 碑文省略、千葉十七は帰国後も遺影と遺墨を仏壇に供えて供養し、その死(昭和 9年50才)後は奥さんがその遺志をつぎ、供養を続けていたが、亡くなった(昭和 40年73才)後は、一族の人達によってまもられていた、という。
 
 碑文にいう、「1979年安重根義士生誕百周年の祝典を聞き、意を決した三浦幸喜・ くに子夫妻ら千葉氏の遺族は、東京韓国研究院を通して故国首都ソウルに鎮座する 安重根義士崇慕館に、此の遺墨を供えた」という。  こうして2年後(1981、昭和56年)の3月26日「安義士の命日に際し日韓両国永遠 の友好を祈念して」として、宮城県知事山本壮一郎の名で、この顕彰碑が建てられ ている。
 
 千葉十七は憲兵曹長となり、退役後大正8年10月より大正9年9月まで、朝鮮成境 北道地方の警察署長をつとめ、帰国しという(事件当時24才)。十七(とうしち) という名前は珍しいが、旧暦の明治17年11月(新暦だと18年1月)生れなので、父 が十七とつけたという。
 安重根は、大韓義兵軍参謀中将(事件当時30才。17才のとき洗礼をうけたクリス チャンであったという。)。
 
 一人の人の事跡を要約するとなると、この碑文のような文章にならざるを得なく なるが、この本によると、安重根には多くの仲間がいたようであり、また千葉や安 の生い立ち、伊藤博文暗殺までの経緯、安と千葉との獄中の交流の様子など、くわ しく書かれている。著者は曹洞宗大林寺住職。

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