下タ沢会によせて(覚書)

尾去沢の忠魂碑と慰霊碑

 南部の火付けの話しが韓国に飛火してしまったが、南部の火付けだ、秋田のホエ ドだといってみたところで、元々は隣りどうし、嫁婿のやりとりも経済的交流も文 化的交流もあったろう。歴史を学ぶということは、古いことをほじくりかえして恨 みを増幅させることではない、ともっともらしく思ってみたり、ともあれ戦争の悲 惨さは、今も昔も変りない。その最大の犠牲者は、一般庶民といわれる社会の一番 下層にいる私達である。いかなる理想の名のもとにおいても、人間が人間を殺し合 う戦争だけは、絶対にさけなければならない、してはならない、というのが私の持 論である。とえらそうなことをいうわけではないが、本音をいうと、私は心臓が弱 いので(面の皮のことではない)、人の後ろについて必死に走っても、100Mも行け ばヘタバリ終りだ。まして家族を護るどころではない。だから戦争はいやだという 話しだ。
 
 ということで、尾去沢の話しにもどることにするが、尾去沢の忠魂碑と慰霊碑は、 今円通寺の観音堂の脇にならんで建っている。忠魂碑は昭和3年、慰霊碑は昭和41年 の建立である。
 
 いわゆる太平洋戦争といわれる、今次大戦(というのは私達世代で、孫子にとっ ては遠い昔話しになってしまうかもしれない。私達が戊辰戦争を思うように)に下 タ沢から何人の人が行ったろうか。我が相馬家からは、大館に行った相馬与七郎 (平成5年死亡)が召集になった弘前に行ったが、病気のため除隊になっており、そ の弟の敏男は満州から南方に転戦、昭和19年7月戦死(高射砲隊であったが、目的地 に着く前に海に沈んだろう)、いとこの義夫も同じ年の3月フィリッピンで戦死、 私は昭和18年1月満州に行ったが、終戦後シベリアに抑留されて、23年12月に帰って きた。澤出昇さんのお父さんは、北支事変初まってすぐか、支那事変になってから か、召集されて戦地に行ったが、無事で帰ってこられた。私は昭和18年の入隊後、 終戦までに、どなたが兵隊に行ったかわからない。是非皆さんに教えてもらいたい と思っている。
 
 今は太平洋戦争とか、15年戦争(昭和6年の満州事変から終戦までの15年間)と か、ひとくくりにされているが、私達にしてみれば北支事変(昭和12年7月7日)か ら戦線の拡大にともなって、支那事変(昭和12年12月13日の南京陥落か、はっきり した記憶がなくなった)となり、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃の時から大東亜戦争 というようになったと思っている(日中戦争といういい方もあるが、いつの時点か らそういったか、私は忘れてしまったか記憶にない。また私のいない、いつかの 時点からか、太平洋戦争というようになったのか、私達が手にし得る普通の歴史の 本では、最初から太平洋戦争のようだ)。昨年であったか、大東亜戦争といってた たかれた大臣があったが、私達年代の者にとっては、大東亜戦争という呼び方は身 にしみているというか、当り前の呼び方であったので、何にかのはずみに口をつい て出るということは、あり得ることだと思っている。
 
 歴史上の事件や戦争をみても、後になってそのことを振りかえってみたとき、あ の事件や戦争はこうだったとなって、呼び名が決っていったのが多いのではないか と思う。例えば前九年の役とか、後三年の役とかいうように、初めからこれは九年 かかるとか、後からのは三年かかるとかわかっていたわけではなく、その時は別の いい方をしていたろうと思う。終ってみて、結果をみて、後の人がそうつけたと思 う。今次の大戦も、これからも、太平洋戦争でゆくだろうが、この戦争と一しょに 歩いた私達にしてみれば、最初から太平洋戦争というのがあったわけではない、と いいたくもなるが、といって肩肘はる気もないし、こだわることもないので、それ はそれでいいとして、

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