下タ沢会によせて(覚書)

恨みはつきない

 私達にしても子供の頃、なぐられたり、いじめられたりしても、いじめた方はケ ロッとして、そんなことがあったかと忘れているが、いじめられた方はいつまでも 忘れない。その恨みで思い出したが、私達が小学校の頃、秀吉の朝鮮征伐だとか、 韓国併合だのと習って、日本の国威発揚といささか得意な気分にもなったものだが、 今になって、事の真相もよく知らないで、その当不当にはふれないが、ただ伊藤博 文をハルピン駅で暗殺した安重根(そんな名前すらおぼえていなかった)は、日本 にとってはにくむべき大罪人であっても、韓国の人達にとっては、救国の義士であ り国民的英雄ではなかったか。
 
 この安重根という人はどんな人間だったのか、ましてやその清廉な人格を敬慕し、 生涯その冥福を祈っていた日本人いたなどとは知る由もなかった。
 
 平成9年(1997)たまたま「我が心の安重根 − 千葉十七合掌の生涯」という本を 見る機会があった。この本のカバーの折返しのところにこう書いている。
 
 「1909年10月、韓国の独立運動家・安重根は、日本の元老伊藤博文をハルピン駅頭 において射殺した。死刑の判決を受けた安重根は処刑の直前、それまで獄中の身を いたわってくれた看守の千葉十七に感謝を込めて、
 「為国献身軍人本分」
の遺書を贈った。
 千葉十七は、この遺墨に終生合掌し、安の冥福を祈った。そして死後も、千葉の 遺言に従い、遺墨は大切に供養されてきた。70年後の1979年安重根生誕百周年に当 たり、遺墨は故国韓国へ返還された。それを機に、この遺墨を刻んだ「安と千葉の 記念碑」が日韓両国の友好を祈念し、千葉の眠る宮城県若柳町の大林寺に建立され た。」
 そして「日韓永遠の平和」を祈る追悼法要が毎秋つづけられている。という。
 
 事件当時千葉十七(とうしち)は、旅順にいた憲兵上等兵で、事件の翌日千葉等 憲兵隊は、情報収集と逮捕された安重根の身柄を旅順刑務所に護送するため派遣され た、という。1週間後、無事旅順刑務所に護送したが、引続き千葉は安の看守を命じ られ、以来処刑されるまて5ケ月間その任に就く。

[次へ進む]  [バック]  [前画面へ戻る]