下タ沢会によせて(覚書)

内田大蔵奮戦の図

 それはいいとして、長年寺(27人)や恩徳寺(16人)にある、この戦さの戦死者 の墓は、例えば内田大蔵を例にとると、真中に内田大蔵富隆墓、右側に明治元辰八 月十二日、左側に秋田於扇田討死、その隣に三十二と書いている。ほとんどそうな っているが、この川野治郎次だけは違っている。先ず向って右側から書いて行くと、 村上文右衛門門人、次は根本五郎建之、次は慶応四年八月十八日戦死、そして義好章 武居士之碑、その隣り新當流足澤門人、そして川野次郎治、隣り年三六、というこ とで全く違う。しかも戦死した年号は、外は全部明治元辰となっているのに、この 人だけ慶応四年になっている。慶応から明治に改元されたのは九月八日というから、 どっちの表記が正しいかは別として、内田大蔵と一所に戦死しておれば、八月十二 日だが、これには八月十八日とある。さてこの人はどんな人だったろうか。
 
 それは後日に譲るといってもあてもないが、内田大蔵は遺烈余芳によると、花輪 隊二番手、三ツ矢沢口先鉾の鎗武者として出陣している(この隊の大炮方頭取は内 田慎吾)が、この部隊編成の関村大蔵の名前の下に、但関村大蔵ハ出軍ノ上十二所 滞陣中一番手ニ加ハリ先鉾ニ進ミ度請願許可ヲ得前進戦死ス。と書かれている(一 番手は土深井先鉾嚮導隊)。
 内藤調一の出陣日記は、国を出奔した、去年赦されて家に帰っていたと書いてい る。そして「この戦に出て討死したるは、さきの罪を償うに足るというべし」とい っているが、大蔵にはいかに天下の情勢にやみがたき志があったとはいえ、無断で出奔 したという罪の意識というか、負い目というか、うっ屈した思いが心の中にあった のではないだろうか(と私が勝手に思うわけですが)。この戦いに時を得たりと心 に期するところがあって、自ら志願して第一線に立ち、勇戦奮斗討死したのではな いだろうか。それは、死を覚悟したものの、壮絶な戦いぶりであり、この戦いに参 加した人達の心の中に鮮烈な印象として残り、田中北嶺の絵の中に生きていったの ではないだろうか。

[次へ進む]  [バック]  [前画面へ戻る]