下タ沢会によせて(覚書)

北東北三県を代表する差別語

 沢出加禄も内田大蔵も戦死してしまったので、この辺で戊辰戦争から引上げよう と思ったが、斎藤長八先生が気になることをいっていたのを思い出し(上津野 NO.24)、その文をお借りすることにする。
 
 「三十年程前の春の日に、十二所の別所にある神社を訪ねた時、腰の曲ったおば あさんに道を尋ねたことがある。「どごがら来たすか」と聞かれて、「鹿角がら来 たども」と答えたら、すかさず「南部の火づけど、今どき神さま拝むに来たじゃ」 と言われて、睨み返されたような気がしたことが、今でも鮮明に思い出される。
 妙に気にかかる言葉であったが、津軽のメクサレ、秋田ホエドと同じように、他 地域の人たちを侮蔑し、揶揄する言葉と考えていた私には、それ以上に相手を恨む ように響きを持った言葉として、いつも耳底から離れることはなかった。」
 
 ということで、南部の火づけの実態を先生の書いた中から拾い出してみると(扇 田の教師佐藤徳次郎の「ふるさと戊辰戦」によると。)、
 十二所四百戸(殆ど)・大滝二十戸・別所四十戸位・道目木二十戸・葛原四十戸位・扇 田四百戸(近く)・猿間二十戸位・達子三十戸位・沢尻三十戸位・平内二十戸・大葛金 山(無残)・二井田五十戸・此の他、山館・片貝・独鈷なども一部焼かれたが、その内、 大滝は茂木軍による作戦上からの焼討で、あとは全部南部軍の放火である。
 と記録されている。これは比内・扇田・十二所だけで千二百戸以上の戸数となるが、 この外に、大館城攻略の時には、市内は火の海になったとあり、二井田まで攻め続 けるまでも続けられていたとすれば、その実数は二千戸以上か、それに近い住家が 焼討ちされたように思われる。と書かれている。
 
 ところが、負けた方の鹿角側は、こうした被害がない。ただ濁川(小坂町)の焼 討事件というのがあった。これは、南部軍は9月20日に停戦を申入れ、9月24日には 全戦線からの撤収をすべて完了していた。しかしここで思いもよらぬ事件が勃発し た。それは、25日早朝津軽兵が不意に濁川村へ侵入し、炮発の上放火したのである (鹿角市史)。このとき池田佐五右衛門という老武士(58才)が津軽兵に対して鎗 を振るって防戦し、敵に突入し討死している(南部軍最後の戦死者となる、桜山の 招魂碑に名前が刻まれている。)。
 津軽藩には、鹿角に討入らなげばならない特別の理由もなかったようなので、終 戦のどさくさまぎれに自藩の立場を有利にしようとしたのではないかと、ともいわ れているようだ。濁川の焼かれた戸数ははっきりしたものはがいようだが、斎藤先 生によると四・五十戸ではないかといわれている。
 まさに濁川の人達にとっては「ンーンこの津軽のめくされど」と悪態もつきたく なることだったろう。
 
 私達の子供の頃、津軽のめくされ(眼の悪い人、目腐れ。時に悪態)は、聞いた ことがあるような気もするが、あまり記憶にない。が昔は、よく目くされといわれ る人がいたものだ。まぶたが赤くただれたようになり、しょっちゅう涙を出したり、 目やにを出したり、まぶたのあたりがグチャグチャしていた。それが津軽の人に多 かったのかもしれない。

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