※原文では、「奴」の文字は「又(獣偏+又)」となっているが、本稿では、こ
れ以降「奴」と表記することにします。 なお、この「又(獣偏+又)」という文字は、P263あたりのから随所に見られま す。SYSOP また話しはおかしくなったが、要するに戊辰戦争の頃は、奴、農兵といわれる人 達には名字がなかったのでは、と思ったが、招魂碑にはチャンと名字がついている。 この碑の出来たのが明治28年となれば、当然名字必唱が定着していたと思うので当 り前のことだが、先に書いた佐藤三郎先生の長年寺、恩徳寺のこれらの人の墓にほ られている名前をみると、例えば高瀬屋仁太郎とか成田屋与助、似鳥谷屋弥助とか、 みな「屋」がついている(招魂碑には高瀬仁太郎のように、みな「屋」が除かれて いる)。中に1人桃枝村市助(碑には藤原となっている)のように村の名前のついて いるのもある。それはそれでいいとして、ただ1人、初めから名字のついている佐々 木六助綱盛というのがある、奴卒だ。この人だけなぜだろうと疑問に思っていたが、 鹿角市史資料編第一集に「遺烈余芳」の原文の写真版がのっていて、栗山文一郎さ んが解題を書いているが(小田島由義の原文は筆書きで、略字もあるが、おおむね楷 書なので、私にもなんとか読める)、この遺烈余芳の「○鹿角人戦死之事」という ところに、いつどこで誰が戦死して、どこのお寺に葬ったかを、1人1人について書 いているが、その佐々木六助綱盛の名前の下に小さく二行に次のようなことを書い ていた。初めから書くと、 「……。同月(8月)十二日敵夜襲の際扇田ヨリ仁井田ヘノ出口ニ於奴卒佐々木六 助綱盛(の下に小さく二行に)年四十八夏井村龍江寺ニ葬ル此ヨリ前同人會津征討 費献納ニ付死後数日士籍ニ編セラレタルニ依リ實名ヲ記セルナリ」とある。同じ奴 でも金持だったろう。これで一件落着となったが、昔はよくあったという。藩の財 政を立て直すため多額の寄付して名字帯刀を許されるなど、佐々木六助はこの部類 に入るのだろうか、それにしても、會津征討費となればどうなるのか、會津も賊軍 なら南部も賊軍、佐々木六助は征討費をどこに献納し、誰が士にしてくれたろうか、 単純な頭では解決ができない、維新史を読み直しか。 |