下タ沢会によせて(覚書)

内田大蔵奮戦の図

 さきに「もう一人の戦死者」として内田大蔵のことを書いたが、ここにきてもう 一つ迷った。内田大蔵か関村大蔵かと。鹿角市史などにある招魂碑の名前も内田大 蔵、内藤調一の「出陣日記」も内田大蔵、ところが安村(二郎)先生の書いた戦死 者の中に、同じ場所、日、年齢で関村大蔵、佐藤(三郎)先生の書いた長年寺の墓 も関村大蔵、同じ人だろうと思ったが、出陣日記の内田大蔵の経歴の中には、関村 になったということは書いていない。遺烈余芳の「鹿角人戦死之事」の中にも「関 村大蔵富隆ハ年三十二花輪長年寺ニ葬ル、扇田入口ニ奮進共ニ戦死ス此戦マ敵味方 共死傷者多ク開戦以来の惨状ナリシテ以テ世俗之ヲ扇田合戦ト云フ」と書いている。
 
 この「遺烈余芳巻ノ一」は「○戊辰戦役従軍之事」として、出陣のときの様子を 書いていて、部隊編成(花輪隊一番手、二番手、三番手の役名氏名)を書いて、 「○鹿角郡人戦死之事」「○戦死者弔祭之事」「○碑文選定ノ事」に続けて、「招 魂碑銘」として銘文を書いて、次に「碑陰ニ左ノ姓名ヲ刻ス」として、行をかえて、 「戊辰之役鹿角郡戦死者姓名」として27名の名前を列記している。ここでは内田大 蔵富隆とある。この名前の後に行を改めて、仙台石工として三人の名前をならべて 書いて、更に行を改めて、次のように書いている。
 因ニ曰内田大蔵前戦死者ノ部ニ関村トアリテ本碑ニ内田ト刻セル所以ハ争戦当時 大蔵ハ関村禄太郎養方ニ入籍中ナリシモ後明治廿に年中更ニ復籍ノ順序ヲナセル旨 実家内田慎吾ヨリノ申込ニ依リ内田ノ姓ニ改ム。
とあることにより、わかったとなったが、いつの時点で関村家に入ったのかはわか らない。
 
 何気なく鹿角市史(第二巻下)の口絵写真を見ていたら、田中北嶺(茂八郎、画 家川口月嶺の弟子、戊辰戦争に毛馬内桜庭祐橘手勢の中に御馬脇として出陣してい る。)の「戊辰役スケッチ集」として絵が9枚のっていた。その2枚目(横長)の真 中より少し左よりに、両脚を踏んばって大刀を振りかぶっている士があり、その左 側に一番鎗内田大蔵と書いてあり、その名前のところに肘のあたりから切り落とさ れた腕が血を吹いて落ちてきており、大蔵の左側に切り落とされた右腕から血を吹 き出して逃げる十二所兵を描いて、その下に腕落る十二所兵逃げる、と書いて、外 に逃げて行く2人を描いている。もちろん大蔵の左上にも戦っている人が描かれてお り、右側には十二所兵に囲まれて(右、左、後に1人づつ)左肩のあたりから血を 吹き出して戦っている士が描かれており、川野治郎次と読めるようだ、これは、こ のとき大蔵と一所に戦死した川野治郎次と思われる。
 
戊辰役スケッチ集
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