さて話しは何にが本題かわからなくなってきたが、戊辰戦争の招魂碑に名前の刻
まれた又(獣偏+又、マタギ)、農兵の名前は、何野何兵衛と立派な名前になって
いる。昔は百姓町人といわれた人達には、名字がなかったとも聞いている(あって
も名乗ることを認められない人もいたかもしれない。)。名字を名乗ることができ
るようになったのは、明治3年9月19日の「平民名字許可令」によってであり、更に
明治8年名字必唱の布告といわれる、2月13日の「太政官布告第二二号」で、それは
「平民苗字被差候旨明示3年9月布告候処自今苗字相唱可申尤祖先以来苗字不分明の
向は新たに苗字を設け候様可致此旨布告候事」というのによっているという。 ということで姓を名乗ってもよいことになり、名字を持っていない人に名字をつ けるときに、係の役人がその人の家が山にあるから山中とか、家の前に大きい木が あるから大木とか適当につけたとか、おしまいには、めんどうくさくなって、例え ば弁慶とか牛若丸とかつけたとか、本当か、うそかわからないような話しもあるよ うだが、姓氏家紋研究家の丹羽基二という人が次のようにいっている。 明治の新姓の生れるについしての奇談、珍談もあるというし、てき当につけられ たという話しもあるが、すべてがそうではない、といって私の調査から要点だけ を申し上げるとして、 ア、苗字の八割以上は、地名に由来する。 イ、それは原住地より祖先の故地のほうが多い。 ウ、かつて姓氏の分っていたものは、復姓した。 エ、ゆかりやあやかりで著名な姓などを用いた。 オ、記念や曰くによって、新しく姓を作った。 カ、祖先の氏(ウジ、古代の)や名字を探して、それに決めた。 などである、といっている。 さて私達の名字は、どの項に該当するだろうか。私が花輪のある家の法事に行っ たとき、名字は同じだが、いわゆる旧家とか名家とかいわれる人が正面に座ってい る。どう考えても血のつながりはなさそうなので、どういう関係か聞いてみたら、 私の家は昔、あそこの家の「かりこ(雇人)」をしていた。それで明治になって名 字をつくるときに、主人の家の名字をもらって、自分の家の名字にした。以来大本 家として奉って、というのは語へいがあるかもしれないが、敬意を表して大事につ きあっているのだ、ということだった。そういうこともあったと思う。これなど、 上記の〔エ〕の項に入るかもしれない。 |