この戊辰戦争の鹿角の戦死者27名のうち、又(獣偏+又)卒(6人)や農兵(10人)
が16人と半数を上まわっている。もちろん動員された人数も多かったろうし、また
刀や槍の使い方も知らない人達だったろうと思うから、士なら戦さに出るのは止む
を得ないとしても、平和に暮らしていた又(獣偏+又)や農民が国(といっても当
時は藩が国だったろうが)のためにかり出されて戦死している。前に金掘部隊が出
陣するときの心得を書いた最初の「覚」のところに(246P)「……何れも永住日頃
の御恩儀を省ミ銘々の安危ニも相抱候事故、事ニ臨候ハヽ身命を抛ち報恩之働可
有之事」と誰がいったか知らないが、安危に抱わるはわかるとしても、日頃の御恩
儀といわれても、武士なら禄をもらって暮らしているから、そうかもしれないが、
金掘りは汗水たらして働いて、更にその上まえをはねられているのが実状だと思う
から、上層部の人はともかくとして、身命を抛げうって働けといわれても、素直に
ハイそうですか、といえるか、と私が今頃腹を立ててもしようがないが、幸い金掘
部隊には、戦死者はいなかったようだから、いいようなものの、百姓町人と一番下
層の人間として差別されていた人達が、いわゆる大義名分の旗の下に、又(獣偏+
又)卒農兵として出陣し戦死したことを思えば、何にか割りきれない思いも残るが、
明治も20年代の後半といっても、まだ士族平民といった風潮が強かったではないか
と思われる中で、身分を越えた正義感、義憤というか、薩長閥がはびこり、賊軍と
差別されている悔しさが、生前は厚く君恩を担わず、死後もまた栄賞を受けること
なき又(獣偏+又)農兵への思いに凝縮していったのか。一緒に戦って戦死した仲
間として、士分の者と何卒と何等へだてることなく、桜山神社に祀り、招魂碑に名
を刻んで顕彰し、弔ってくれたことを思えば、小田島由義をはじめ当時の人達の志
を壮とし、これを受け継ぎ鎮魂の祭りを続けていってほしいものと思う(今も続け
ていると思うが、あまり桜山神社のお祭りということを聞くこともないが、一部関
係者だけで行っているのだろうか)。 それにしても、沢出可禄の鎗持の左蔵は、安村(二郎)先生によれば、毛馬内の 仁叟寺に葬られたというが、毛馬内では明治20年10月15日に戊辰戦争の戦死者26人 の墓石を建てたそうだが(桜山の招魂碑(27人)との関係はどうなっているのだろ う)、その中に鎗持左蔵は入って居るのだろうか。また盛岡の戊辰戦争五十年祭と 殉難碑建立は大正六年ということだが、左蔵は後日普代村に帰ったとしても、こう した殉難碑には縁がなかったかもしれない。 「勝てば官軍、負ければ賊軍」、この言葉は私達もよく使ったが、今こんな事を 書いて、この言葉はいつ頃から使われるようになったろうかと思った。考えてみる と明治以前は官軍賊軍という言葉はなかったのではないか、となれば国民に絶大な 人気のあった西郷隆盛が西南戦争で負けたあたりではないか、と思った。それで何 にかないかと探してみたら、「故事ことわざの辞典」というのがあった。それによ ると、「いくさに勝てば、勝った方がすべて正しいことになる。勝負によって正邪 が定まる意。明治維新の際に生じた言葉」とある。もしかしたら、戊辰戦争で負け た方の人達が、時の新政府(薩長)の横暴に対して、戦さに負けた悔しさと、恨み、 やりきれないあきらめを込めていい出したのかもしれない。鹿角は南部公の白石転 封(明治元年12月)以来、盛岡県、八戸県、三戸県、江刺県となり、明治4年秋田県 に編入になるまで、三転四転したことをみても、実状を知らない者達が権勢を笠に 着て、勝手気ままな仕打ちをする、と切歯抱腕したであろう鹿角の人達の姿は、想 像するに難くない。 勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉は、鹿角が発祥の地かもしれない。 ともあれ、鎗持左蔵のような身分の人達は、それこそ生前はもとより、死後も何 等恩賞を受けることなく、単なる戦争の犠牲者として、ふる里の墓に葬られて終っ たのだろうか。 |