下タ沢会によせて(覚書)

もう一人の戦死者 − 内田大蔵 −

 戊辰戦争も戦死者を弔ってしまえば終りになるわけだが、この戦争で尾去沢関係 で戦死した者にもう一人、内田大蔵がいる。彼は8月11日の扇田合戦で戦死している が、出陣日記を書いた内藤調一と同門で、親交があったのか、彼のこともその人と なりなどくわしく書いている。
 
 「此戦に内田大蔵一番鎗を入敵兵八人に取まかれしか四人迄突仆し討死せしよ し大蔵性沈勇にして大志あり内田九兵衛の四男なり年少き時ハ富治と称し予と同く 泉沢修斎翁の門に寺入し長じて盛岡の医生三浦氏に養ハれ薙髪して道節と称し亦予 と同く川上東厳翁の門に遊ひ書を読み詩を作る事数年なりしか憤発して国を出奔し 江戸に遊ひ又京に入某の先生に遊学し髪を養て今の名に改め又還て江戸に入り小野 寺慵斎の門に入て兵法を学ひしに学益進て国に帰りたれハ出奔して四方に落魄する 事数年なりしを去年赦されて帰り家にありしか今茲慶応戊辰三十四歳択抜れて軍に 出討死したるハ曩(さき)の罪を償ふに足るといふべし」
 
 また鹿角市史第二巻下の「鹿角の武術家」の中の「武芸の人々」のところに、沢 出可禄と共に次のように載っている。
 
○内田大蔵:尾去沢内田九兵衛富孚の四男に生れ、盛岡藩医三浦道寿の養子となっ て道節と改名した。幕末の世相騒然となるや、長沼流兵法を修め、脱藩し諸国の志 士と交わり、のち戊辰の役に参加し、扇田神明社の激戦に戦死した。享年三十二歳。
 
 出陣日記は、戦死した歳を三十四歳と書いているが、これは満と数えの違いだろ う。沢出可禄についても、同じことがいえる。
 
 花輪の小田島家の養子になった由義(郡長さんと親しまれた)は、内田九兵衛の 末男ということだから、この大蔵の弟になると思う(幼名丑五郎→徳弥→由義)。 この由義は、三ツ矢沢口先鋒花輪隊二番手の惣締り役として出陣している。
 この花輪隊二番手の部隊編成の最初に大炮方頭取として内田慎吾、大炮方として 8名、川口理忠太、沢出善一郎、高橋健治、青山庄蔵、岩尾東馬、沢出善次郎、 高橋駒五郎、岩尾伝治の名がある。この人達はなんとなくみんな尾去沢関係の人の ような気がする。尾去沢の山先は青山、沢出、川口、奈良、岩尾の5家といわれてお り、内田家もまた代々尾去沢銅山役人をしているという。内田慎吾は第4代尾去沢村 長(明治27年〜29年)をしている。

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