下タ沢会によせて(覚書)

ぶっつかりそうになった石 − 荒木田政次郎の墓 −

 花輪の恩徳寺には、この戦争で戦死した人の自然石の墓が16基ほどあるが、鹿角 市史によれば、「花輪恩徳寺は戊辰戦争を通じて野戦病院本部になったと伝えられ るが、傷病兵に関する記録は一切なく、大館の宗福寺と同様、戦死者の遺体収容所 であったようである。」という。この恩徳寺の「新過去帳は、同寺に収容された戦 死者と宗福寺執事より届けられた分を併せた戦死者名簿で、その例は次のようなも のである。」(例省略)
 「恩徳寺に収容された遺体は、一応の確認と供養が済むと、それぞれの菩提寺へ 送られ、埋葬されている。」という。そしてこの項の最後のところに、
 
 「盛岡藩は戊辰戦争で賊軍の汚名を着せられ、鹿角の人々もいろいろな面で、多 くの教訓を与えられた。しかし今は、一場の夢と化し、花輪長年寺、恩徳寺、毛馬 内仁叟寺等々苔むした碑がひっそりと建っているばかりであるが、弔う人々も少な くなったのか、香華も絶え勝ちである。殊に一基二基とある市内各寺院の墓石は訪 れる人もなく、草に埋れ捜し当てるのに苦労する程である。」といっている。
 
 昨年の10月の末頃であったか、尾去の長泉寺の庫裏が改築され、同時に境内墓地 等の整備も行われ、その竣工式に行ったとき、今まで私の家の寺の後ろにある墓に 行くには、お寺に向って左側を通っていたが、今度庫裏の隣りの畑になっている所 も改修されて駐車場になり、そちら側からも行ける道路ができたので行ってみた。 坂道を上って平地になる本堂の後ろあたりで、左右ボヤッとみて歩いたいたので、 大きい石にぶっつかりそうになった。オヤッと思ってみたら、赤茶色のくすんだよ うな、およそ三角形のひとかかえ程の自然石だった。瞬間私は戊辰戦争のときに死 んだ人の墓ではないかと思った。その頃は戊辰戦争のことは考えていたが、その戦 争はどんな具合に進展し、どんな人が戦死したかなど知らなかった。ただ花輪の桜 山には、この戦で死んだ人の記念碑か何にかあるとか、また恩徳寺の墓地には、丸 い漬物石をならべたような自然石の墓があるということは、何にかの写真でみたこ とはあった。それが心の底にあったので、ぶっつかりそうになったとき思ったのは、 その丸い墓石からの連想であったかもしれない。それで、何にか書いていないかと よく見たら、荒木田政次郎と読めたので、その名前を手帖に書いてきた。

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