下タ沢会によせて(覚書)

この戦争で下タ沢出身の戦死者はいたろうか − 沢出可禄のこと −

 この戊辰戦争も阿部恭助さんが湧上りに上って、はるか三哲山(十二所)の方を みて、我が軍勝てりと緒戦の勝利をよろこんでいるが、十二所、扇田、大館と落し て進撃したのはよいが、次第に秋田藩の連合軍に反撃され敗退、ついに9月20日停戦 申入れということになる。
 この戦さの戦死者について、鹿角市史は次のように書いている。
○「秋田進攻の拠点となった鹿角では、所給人はもちろんのこと、花輪、大湯の両 南部家、毛馬内の桜庭氏の家中、また百姓、町人に至るまで農兵隊、軍人として 従軍したため、その損害も大きく、盛岡藩全戦死者91名中の3分の1、30名近くの戦 死者を出している」と。
 
 この戦死者の中には、我が金掘仲間はいないようだが、桜庭氏家中として出陣 した沢出可禄は9月2日の板沢(扇田から二井田を通って行く岩瀬の手前)の戦闘で 戦死している。
 戊辰戦争の従軍記録、内藤調一(湖南の父)の「出陣日記」に次のように書いて いる。
 
 「源吾(桂源吾、目付、南部藩士)は敵三十人余りに取巻れ、三人まで斬殺せし か多勢に及難しと思いしにや腹を割て自殺しといふ可禄ハ敵十四五人は向ひしか鎗 を以突入れたれハ敵逃去りしか又もり返されて討死したるよし」と。
 
 このとき一緒に戦死した人達のことも書いているが、省略するが、菩提寺である 毛馬内の仁叟寺にほおむられている。
 可禄の兄善平は、盛岡藩士として取り立てられたことは前に書いたが、この戊辰 戦争のときは、総大将楢山佐渡の参謀として参加しているが、無事に帰ったものと 思う。

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