下タ沢会によせて(覚書)

新通洞はいつ頃できたか

 鉱山・役場・学校・買物で町部に出るには、大正の初め頃までは中新田を通り、田郡 の坂道を登って、田郡坑口から入って赤沢に出た。その後、下タ沢を通り新通洞か ら入った。
 尾去沢小学校高等科の通っていた頃(大正十年頃)は、下新田から下タ沢を通り、 元山に出て峠を越え、製煉の地這い煙突の上の七曲りを下って、選鉱場の所に降 りて学校へ行った。
 七曲りの道は、製煉の煙突から出る鉱煙で先が見えなくなるときもあり、亜硫酸 ガスのため呼吸が苦しくなるときや、風説が強くて危険なときは、少し遠まわりに なるが、元山の墓地の近くを通り、石切沢に降りた。七曲道は煙突のため山肌が荒 れて、草木が殆んど生えていなかった。
 坑道や元山越えをしないで尾去沢の町部に出るには、十文字の山道を通るルート があった。下新田の上流、庚申さんのところから左の沢に入り、山道を登り、お堂 の長根を通って、コエト(峠)に出て、崎ノ沼近くの土深井鉱山の脇を通り、十文 字(峠)に出て山方(旧尾去沢小学校の裏側)に出た。
 
 浅岡さんが大正10年頃高等科に通うとき、下タ沢から元山に抜けて行ったとい っているが、浅岡さんが高等科に通うようになるのは、大正11年から(尾小百周年 記念誌から推定)のようなので、若干の記憶違いはあるにせよ、それは大いして問 題でないが、大正の初め頃は、中新田から田郡を通ったといい、その後下タ沢を通 り新通洞から入ったといっているので、大正の10年代には新通洞はできていたと 思われる。先に新堀の工藤さんのお父さんが鉱山の事故で亡くなったのは、私の生れ た年、といっていたので、大正4年として、新線(石切沢坑口)のできたのは大正 5年といわれているから、これは新線と新通洞のおぼえ違いかもしれない。また記憶 が正しいとしてみても大正4年に測量が終って、坑道が貫通するまで(仮に大正11年 として)万歳立坑からおよそ100米くらいだから、6年も7年もかかったとは普通考え られない。いずれにしても、はっきりした年代はわからないから、浅岡さんなどの 話しも勘案して、私は大正11年生れだから、それにちなんで新通洞は大正11年頃に はできた、ということにしておこう(無責任な話しだが、今のところ決定付ける資 料も持たないので)。
 
 また、万歳の立坑のところから新通洞に入って、坑口に近くなるあたりから左に それて、田郡に行く坑道があった。大正の初め頃三ツ矢沢の人達は、田郡の坑口か ら入って赤沢の方に出たともいっているが、この田郡の坑口から入って真直ぐ行く と、万歳立坑の前を通っている電車道(赤沢の方につながっている)に出た。この 新通洞から分れて行く坑道は、田郡坑口のすぐ近くに抜けていたので、私達が新通 洞を歩いていた頃は、田郡の人達も新通洞まわりで歩いていた。こっちの方が近か ったかもしれない。ということは、この新通洞から田郡に抜ける坑道は、新通洞が できた頃できたかもしれない。私はあまり通ったことはないが、ところどころに陥 没している穴があって、歩きなれない道なので、どこに穴があるのかわからず、こ わかった記憶がある。

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