下タ沢会によせて(覚書)

善太夫の通ってきた道

 さてこの初代善太夫は西道に住んでいたものとして、どこを通って下タ沢に来 たろうか。わざわざ湧上りの方に上っていって、元山を通って来たとは考えられな いから、今の下新田から鉱山の方に抜ける県道(十二所花輪大湯線)を通って下タ 沢に入って来たのではないだろうか。私達が子供の頃は、下モの蟹子沢の出口のと ころあたりから、鉱山に抜けて行く狭い山道があって、高等科に入るようになって から、何度か通ったことがあるが、今の県道と少し道筋が違うが、この県道の峠に なるあたりから、下に下って、崎の沼に抜けて行った(今の県道は、この峠のとこ ろから右に山腹を削って行っている。)。当時は鉱山・下新田間はもちろん、秋田領 (別所、十二所方面)に出て行く大事な道路の一つとして、時々道ぶしんなどもし、 歩き易くしていたのではないだろうか。
 
 戊辰戦争のときに、川口理忠太(川口家の何代目になるかは、わからないが)が 南部藩の三ツ矢沢口先鋒の花輪隊二番手として出陣したとあるが、この道を通って来 たのかもしれない。
 そしてこの道は、新通洞が出来るまで、下新田方面の人はもちろん、下タ沢の人 にとっても、鉱山や花輪の方に行くためにも、大事な道路だったと思う。それにし ても、夏場はいいとしても、冬場はどうしたろう、今に比べものにならない程雪が 多かったと思うが。

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