下タ沢会によせて(覚書)

新通洞はいつ頃できたか

 蟹子沢で思い出したが、この沢でガニッコ掘りをしたのは、私達が最後の世代か もしれない(今、上みのガニコ沢、下ものガニコ沢といっても、下新田の人達もそ ういっていたかどうかわからない)。このガニコ沢も今は草や木が生えたり、砂防 ダムができたり、杉の木が植林されたり、昔の面影もなくなった(下新田の人達が 馬を置かなくなった影響が大きいと思う)。
 私達が小学生の頃、この沢でガニッコ掘りした記憶が残っている。細いチョロチ ョロした流れの中の小さい石を起したり、砂をほじくったりしていると、沢ガニが ノコノコ出てきたものだ、といっても大量にとれるといったものではなく、2〜3匹 か、せいぜい3〜4匹程度のものだったような気がする。また夏には、キリギリス取 りに行った。今の県道の峠のところから、左側のなだらかな山(丘)を少しのぼっ て行くと、カヤ野みたいになっていて、そこがキリギリスのいるところだった。私 も2〜3度行ったことがあるが、うまくつかまえられなかった。夜になると、大人の 人達かよくカジカ突きに行った。私はかたって行ったことがないので、どこの沢に 行ったかしらないが、下新田か、別所の方の川だったろうと思う。大ていの家にガ ラス箱とヤスがあった。とにかく新通洞が出来るまでは、この山道は正に交通の要 路であったと思う。
 
 私達は新通洞はずっと昔しからあったように思っていたが、それは割合と新 しいことだった。幸子の姉(ヒサ)がまだ鉱山に勤めていた頃、今、新山におられ る工藤秀子さんから、お父さんが測量やさんで、新通洞の測量が終った直後に、鉱 山の事故かで死んでいるので、何にか鉱山の方にその当時のことを調べたものがな いだろうか、と聞かれたと話していたことがあったのを思い出して、工藤さんに聞 いてみたら、それは大正4年の11月頃のことだった、ということであった。となれば、 大正5〜6年頃には出来ているはずだと思ったが、今回こうして下タ沢のことを書く ために見た本の中に、何にか山カゲの交通のことを書いた記事があったかと探して みたら、「鼻環・尾去沢の民俗」という調査報告書の中の「田郡・三ツ矢の人達の交 通」というところで、下新田の浅岡義栄さん(平成9年に亡くなった)が次のように 言っていた。
 
 下新田は大館十二所と接しており、地形的にも十二所町へ出るのが便利であったが、 一時間位かかった。
 県道十二所・花輪線が開通になるまでは、自動車で行くには、花輪 − 松ノ木 − 十二所・別所を経由して行かなければならなかった。
 
(下タ沢の沢出春吉さんが、下タ沢 − 下新田 − 別所の道路改修に尽力して、下 タ沢まで自動車も入れるようになった、ということで、頌徳碑を建てたのが昭和11 年。
 なお、県道十二所・花輪線は平成に入って大湯まで延長され、今は県道十二所・花 輪・大湯線といっている。この十二所・花輪線が曲りなりにも自動車が通れるように なったのは、昭和43年頃からだと思う。今も拡巾や補修が行われていると思うが、 私達が小学生の頃(昭和4年入学)下新田の上みの方から下タ沢の分れ道を過ぎて真 直ぐに上る工事がかかっていた。坂を上りきると、今は沢沿いにそのまま奥まで行 くが、その頃は坂からすぐ左に曲って10米くらい行って、また右に少し曲って止っ ていた。その掘割りの跡が今も残っている。予算の関係か、政策の変更かしらない が、新しい観点から測り直して工事が再開されたのは、昭和40年前後であったかも しれない。)
 話しはまたもとにもどって、浅岡さんの続き。

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